2015年08月

麻植の保司・平康頼

20141023231218 「治承元年(1177)、平康頼は後白河法皇側近の僧俊寛・藤原師光(板野郡吉野町出身)・藤原成親などとともに打倒平清盛の謀議を東山の鹿ガ谷でたびたび重ねていたが、同志一人の密告により発覚、一味ことごとく捕らえられて処罰された。 

康頼も藤原成経(成親の子)らとともに薩南の鬼界ガ島に流されたが、三年で帰ってきた。 その後、平氏は滅び源氏の世となった。

 源頼朝は、平清盛の打倒を図ったことや、尾張の目代であった時、頼朝の父義朝の墓が荒れているのを修理したりしたこともあって、康頼を文治二年(1186)麻植の保司に任じた。
康頼は保司庁を森藤の春日免に置いた。
また、康頼は着任後、後白河法皇や亡母ならびに鹿ケ谷の変で鬼界ガ島へともに流され、かの地で死亡した僧俊寛などの霊を慰めるために、鬼界山補陀落寺(伝説では広大な七堂伽藍を備えた)と慈眼山王林寺の二寺を建立してその人たちの冥福を祈ったといわれている。

 康頼の死亡年月日は不明であるが(筆者記 1220年)、その死後、長子清基が麻植保司の仕事をついだ後、「承久の変」(1221)が起こった。
清基は阿波守護佐々木経高などとともに、後鳥羽上皇方についたが幕府方に敗れ、阿波は佐々木氏に代わって小笠原長清が守護となった。
清基が後鳥羽上皇方についたのを知った小笠原氏は幕府に訴えて、麻植保司の職から追放した。

清基の弟康利は、一族をまとめて前に康頼が越前の国(福井県)で私領としてもっていた足羽郡へ引き上げていった。 
現在、同地では王林寺という寺もつくられ、康頼を神として康頼神社が天明の頃作られ、その子孫という人々によって祀られている。」
  (「かもじま町の歴史とゆたかな文化財」 喜多弘・湯浅安夫共著「麻植の伝説」より)

秋を告げるモズ

a 稲刈りをせねばならないのに、この長雨は迷惑千万なことだ・・。

今の時期になると聞こえるのがモズの高鳴き(高音)。
夏の間は何処にいたのかと思いたくなるほどに、稲が実るとその存在感をあらわにする。

 モズ(鵙)のモは鳴き声、スは鳥のことだという。 
ヒバリやカワラヒワ、メジロ、シジュウカラなどいろいろな鳥の鳴き声をまねることが上手で、なかでもホオジロのさえずりは完全に真似ることができるほか、人の声や機械の音まで真似る。 そのことから百舌鳥とも。
澄んだ大気に響き渡る声はテリトリー宣言ばかりでなく、秋の到来を告げる鳥でもある。

「鵙鳴いて 少年の日の空がある」
(菊池麻風 1902-82)

 全ての農作業が機械化され昔とは違う農村風景ではあるが、モズの声を聞くと何故かなつかしさが甦ってくる。

モズにもオオモズ、オオカラモズ、アカモズ、チゴモズなどの仲間がいて、そのなかでもチゴモズの姿は美しい。

tigomozu本州中部北部以北でしか見られないのが残念だが、鳴き声は「グワッグワッギチギチ・・」とあまり品がよくないようだ。

「鵙よ鵙 ピンチャンするな かゝる代(よ)に」(一茶)


「犬神退治」

image001 馬郡穴吹町口山の緒方家には、飯尾常連(つねつら)の書いた犬神文書がある。

 「阿波国中に犬神を使うやからありという。早くたずね捜し、罪科に致すべきことを、三郡
〈三好、美馬、麻植〉諸領主に堅く申しわたすもの也」   文明四年八月十三日    常連           三好式部少輔殿    

 口山の緒方家では、犬神つきに書き物を頂かしたらなおると信じられ、遠方からも頼みに来る人があった。

昔、阿波の国には「犬神使い」が多かった。 県下の至るところに犬神の話があって、それによれば犬神の系統があってその系統の者にうらまれると、たちまち犬神を追いかけて食いつかされるというのである。
そこで発病ということになり、祈祷師に頼んで犬神を追い払ってもらうということが行われていた。

 当時、勝瑞城下にも犬神使いがはびこり領民を苦しめた。
そこで、細川成之は飯尾常房を呼び、「その方の祖父常連は、文明四年(1463)に足利殿に命を受け、犬神使いを罪科にするべき旨を、麻植、美馬、三好の三郡に通達した。その方も犬神使いを退治するように」と命じた。
常房は父から犬神退治の方法を受けていたので承知し、家臣の岡田権九郎に犬神退治を言いつけた。

やがて、勝瑞城下で犬神使いを調べたところ、男女合わせて三十六人もいた。
権九郎はこれらの者を引き連れて、常房の領内に向かったが、途中で飯尾にいくなら「いのう」と二十一人が飯尾を恐れ、他人に乗り移らないことを誓って許された。

ところが、喜来へ来たら更に三人が「ここはきらいだ」と、二度と乗り移らないことを誓い許された。
残った十二人が報恩寺に設けられた小屋に入れられたが、やがて常房の犬神つき退治の方法で、それきり姿を消したのである。
以後、常房は成之から「犬神除き」の職を受けたという。」
  (喜多弘・湯浅安夫共著「麻植の伝説」より)  

「保元の乱」

Go-Shirakawa 天狗譚その2。 

天狗は強い怨みを抱いた人間や、傲慢な山伏・僧侶が転化したものと考えられたが、生きながら大魔縁「大天狗」となった同母兄・崇徳天皇を死に追いやった後白河天皇も型破りでつかみどころがなく、多くの顔を持つことから源頼朝をして「日本一の
大天狗」と言わしめた人物。

 後白河が久寿2年(1155)近衛天皇が17歳で崩御したため中継ぎとして当時としては異例といえるほど遅い29歳で即位したことに崇徳上皇が反発して、失脚していた藤原頼長や側近の源為義・為朝らの武士を引き連れ「保元の乱」(1156)を起こしたが敗れ讃岐に配流された。

この時為朝は夜討を進言したが、頼長は「天皇と上皇の争いでむやみに夜討などしてはならない」と援軍を待つこととし、翌未明に後白河方に白河北殿を攻められ、頼長は流れ矢に当たり3日後に死亡している。 為義は斬首、為朝は伊豆大島に流された。

藤原摂関家の御曹司・頼長は藤原氏の長者となったが、峻厳・果断な性格から「悪佐府」との称せられた。
近衛天皇にも疎まれていたためか、天皇が眼病がもとで夭折したのは頼長が愛宕山の
天狗像の眼に釘を打って呪詛したためとの噂が流れ、重用を受けていた鳥羽法皇の信任も失い排除されていた。

 後白河天皇は、その後平清盛(1179)、源義仲(1183)にも幽閉されるなど何度も命の危険にさらされたが生き延びた。
34回も熊野に詣でるほどに崇仏心が篤く、『吾妻鏡』によると声高に念仏を70遍も唱え、手に印契を結んで座ったまま眠るがごとく往生したという。
(1192年 享年66)

「八大天狗」

Karasu-Tengu 高越寺に行けばいつでも「高越天狗」に会える山川町民にとって天狗は身近だが、天狗は魔物・魔王・妖怪とも神とも云われる不思議な存在。


古くは「天狗(あまきつね)」と呼んで流れ星のことを云ったらしいが、その後は山の精霊とか人を惑わす妖怪とされ、その容姿は「人に人ならず、鳥にて鳥ならず、犬にて犬ならず、足手は人、かしらは犬、羽根が生え飛び歩く」(『平家物語』)、
「二足歩行する鳶(とび)に似た怪鳥」(『今昔物語』)で、強い怨みを抱いた人間や驕慢な僧侶などが変化したなどと時代とともに変わったようだ。

 天狗にまつわる話としては、
新田義貞が元弘3年(1333)5月8日鎌倉幕府討伐の旗をあげたとき、兵はわずか150騎にも足らなかったが、その時越後の軍勢二千騎が援軍に駆けつけてきた。
聞くと、「さる5日に使者と名乗る天狗山伏が、一日のうちに越後の国中を触れまわってきたので大急ぎで駆けつけた。明日も援軍が到着する」といい、まもなく甲斐・信濃からも援軍がきて、討伐軍は総勢五千あまりにもなったと。(『太平記』)

また、崇徳上皇の怨霊、天狗伝説は史実であるとされる。
鳥羽天皇の子である崇徳上皇は母・待賢門院(藤原璋子)が異常なほどに曽祖父・白河上皇の寵愛を受けたので本当は白河上皇の子ではないかとの噂がたち、父・鳥羽天皇から疎まれた。

そして白河上皇が死ぬと叔父・近衛天皇に譲位せざるをえなくなり、母が死ぬと弟・後白河天皇が即位。 父が死ぬと追い詰められた崇徳上皇は兵を挙げた(「保元の乱」)が、あっさりと敗れ讃岐・白峰に配流された。 上皇は舌を食いちぎって血で呪詛の聖文を書き海の底に沈め、怨霊・天狗となって京都、天皇家に数々の災いをもたらした。
この天狗が大天狗・白峰相模坊とされる。

 この他、愛宕山太郎坊、比良山次郎坊、飯綱三郎、鞍馬山僧正坊(源義経に武芸を教えた鬼一法眼と同じだと)、大山伯耆坊、英彦山豊前坊、大峰山前鬼坊とあわせて「八大天狗」とされ、48いる大天狗の中でも特に法力が強いとされる
。 (「八大天狗」には石鎚山法起坊を加えることもあると。 ちなみに48大天狗の中には四国では、象頭山金剛坊がいるが、残念ながら高越天狗は含まれていない)
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