2015年08月

キツネと狸

Yoshitoshi_Bunbuku_Chagama 人を騙すキツネは狡猾な動物として嫌われる一方、猫が本邦に入ってくる以前には穀物を喰い荒らすネズミを退治することから農耕神と同一視され稲荷信仰へとつながった。

これはお稲荷さんの祭神である宇迦之御魂(ウカノミタマ)神の別名が御餞津神(ミケツカミ)ということから、キツネの古名ケツが想起され三狐神をあてたことによると。

お稲荷さんは「稲荷、八幡、犬の糞」と云われるほど、全国に8万社ある神社のうち3万2千社もあり分社の数ではナンバーワン。

 ところで狐と違っては、その愛嬌のある顔からか親しみをもって昔話などに登場する。
よく知られているのは『ぶんぶく茶釜』。
茶釜に化けた狸が言うままに「ぶんぶく茶釜」と銘打って見世物小屋で芸を見せたところ人気となり大金持ちになるという報恩譚だが、元は館林(群馬県)に来た守鶴という和尚が手に入れた茶釜がいくら湯を汲んでも尽きることがなく、この茶釜の湯で喉を潤すものは開運出世・寿命長久など八つの功徳に授かると評判になった。

そうしたある日、守鶴が熟睡していると手足に毛が生え、尾がついた貉(むじな。 狸との説も)
になって正体を現した。
寺にいられなくなった守鶴は名残を惜しみ、人々に「源平屋島の合戦」と「釈迦の説法」の二場面を再現し、貉の姿となって飛び去った。 この寺伝をもとに明治・大正期の作家・厳谷小波によってお伽噺として出版され評判となったのが「ぶんぶく茶釜」。

 なお、これと同様の話が山形県米沢市南原の曹洞宗・常慶寺にあるのだが、こちらは主役がキツネだと。


「魔がさす」

九尾狐 まだあどけなさが残る男女中学生2人が犠牲になるという痛ましい事件がなぜ起きたのか。

人間生まれつき悪人なんていないはず、その後の環境がそうさせるのだろうか・・。

ところで、「魔がさす」とは、「悪魔が心に入り込んだように、一瞬判断や行動を誤る」ことだと。

 古くから日本だけでなく世界各地でも狐を魔物、憑き物とする伝承がある。

男心を惑わす美女と狐が結びついたのが「玉藻前」。
平安時代末期、鳥羽上皇に仕えた絶世の美女が「玉藻御前」。
18歳で宮中に仕え、鳥羽上皇に仕える女官となってその美貌と博識から上皇に寵愛された。

しかし、上皇は次第に病に伏せるようになり、原因を調べても分からなかったが、陰陽師・阿倍康成が玉藻前の仕業と見抜いて御幣を振り真言を唱えると、玉藻前は白面金毛九尾の狐となって行方をくらまし上皇の病は完治した。 その正体は、天竺や中国で悪行をはたらき日本にきた八百歳にもなる妖狐だった。

その後、那須野(現在の栃木県那須郡)で次々と婦女子をさらわれるという、九尾狐によると思われる事件が頻発したので上皇は討伐軍を派遣した。
討伐軍は神仏に祈祷することでようやく九尾の狐を射止めることができ遺骸を都に運んだが、その怨念が毒石となり毒気を放って近づく人間の命を奪ったことから、村人は「殺生石」として恐れた。

 南北朝時代となって、玄翁(げんのう)和尚が法力によってこの殺生石を砕くと、その破片が会津と備前の国に飛んでいったと。 それでも砕かれた殺生石はまだ異臭を放ち続けていると・・。
 (このことから金槌のことをゲンノウと呼ぶ)

「月見れば・・」

moon また、台風(15)が接近中だ。

これから米の収穫期に入るので迷惑なことだ。
”二百十日”(91)が厄日とされたのも、今は作付が早まったがその頃は稲の開花・受粉期にあたり収穫に大打撃を与えたことからだと。

「天高く馬肥える秋」とは、もともと台風や長雨が少ない中国の諺で、日本では十月半ばまでは天気は悪いのが実際のよう。


「西祖谷の 役場灯れる 月夜かな」(岡田日郎)

 もうひとつ、秋といえば「」が美しいとされ数々の名句がある。
古来「雪月花」といわれ、春の花に次いで重要な風雅として月を愛でてきたが、それは秋の月のこと。
また、ウサギが餅を搗いていると教えられたものだが、その由来は定かでない。
古代中国の伝説では、不死の薬を飲んだ美女が月に昇り、兎は不老長寿の仙薬を搗いていたとされていたのが、日本に餅つきとなって伝わったのではと・・。

 その月は、今も1年間に3センチほど地球から遠ざかっているという。
”ジャイアントインパクト”という火星ほどの巨大な原始惑星が衝突して生まれた月は、はじめは地球から2万キロほどしか離れていなかった。

衝突によって地球の自転軸は傾き、5~8時間で自転していたが、やがて自転速度は次第に遅くなり、それにつれて月も地球から離れていった。
月は潮の満ち引きを引き起こし海水と海底面との運動のずれにより、地球の自転速度は数年で秒速1ミリ程度、約5万年(10万年とも)に1秒遅くしている。
この結果、現在月と地球との距離は約38万4400㎞だが、1年間に3.8センチほど地球から遠ざかっているのだと。 
(二間瀬敏史著「宇宙の始まりと終わり」ナツメ社ほか参照)

「咲けば散る」

64058 「咲けば散る 世の習はながしを思うにも 待つをや花の盛りといはまし」(三好政長)


三好”宗三”政長は「江口の戦い」(1549)において長慶により父・元長の仇として討たれたのだが、越後守長尚(勝時 長慶の曽祖父・之長の弟)・政長親子は細川晴元の側近衆として近侍しており、元長を当主とする筑前守流三好氏とは同じ三好一族でも一体ではなかった。

特に元長が「堺幕府」(1527-32)を樹立した頃は、阿波でも北部の吉野川流域の国人衆は元長の下に編成されていたが、一宮氏や新開氏、海岸部の黒人は三好氏を介さず細川晴元に属していたようだ。

ともかく、長慶はその後将軍・足利義輝を追放し、’64年に病死するまで畿内に覇を唱えたのだが、3人の兄弟を全て失った。(三弟・安宅冬泰は自らの手で謀殺)
そして、’77年三好長治が別宮浦で異父兄弟の細川真之勢に攻められ自刃して阿波三好氏が事実上崩壊・滅亡するまで、幾多の戦いに多くの一族・将兵が死んでいった・・。(長治と細川真之が異父兄弟というのは創作だとされる)

 そのきっかけとなったのが織田信長の上洛なのだが、「本能寺の変」(1582)により時代の舵が大きく振れたのちも生き延びた三好”笑岩”康長を別にすれば、長慶より前の三好一族も次々と命を落としている。

まず、天正6年(1509)「如意が嶽の戦い」で長慶の祖父・
長秀(1479- )が次弟・頼澄とともに伊勢で自刃しており、永正17年(1520)には曽祖父・之長が「等持院の戦い」で百万遍で次弟・長尚の子・新五郎(政長の長兄)とともに斬首され、翌日には子(長秀の三、四弟)長光長則も。

大永7年(1527)京都「桂川原の戦い」では勝長(長家。政長の次兄)
が瀕死の重傷を負ったのち死亡したよう。 
天文元年(1532)堺の顕本寺で父・
元長が晴元の画策により一向一揆軍に攻められ自害し、之長の三弟・一秀も・・。
政長の父で之長の次弟・長尚勝時)についても、この戦いのとき河内飯盛城で戦死しているようだ。

「天下三肩衝」

511247 「天下三茶壺」に三好実休がからんでいるが、「天下三肩衝」には三好宗三政長 1508-49)が登場する。

政長(宗三は法名)は三好長慶の曽祖父・之長(1456-1520)の弟・長尚の子で、政勝(1536-1631)の父。

政長は元長(長慶の父 1501-32)と敵対し「江口の戦い」(1549)で長慶に討たれた。
後に信長が所持することになる名刀「義元左文字」は、元は政長が所持し、武田信玄の父・信虎に贈ったもので「宗三左文字」とも呼ばれていた。

政長は武野紹鴎に侘茶を学び、九十九髪茄子茶入・新田肩衝・北野肩衝・耀変天目茶碗など大名物・名物を所持していた戦国武将茶人の先駆けであった。 
先の「天下三茶壺」のひとつ「松島茶壺」は、今井宋久が上洛した信長に献上したと書いたが、その前は政長が「江口の戦い」の戦費調達のため質入れしたものを武野紹鴎に質流れとなり、紹鴎の娘婿である宋久に受け継がれたもの。
「江口の戦い」の直前天文18年(1549)2月21日に武野紹鴎や津田宗達を招いて開いた茶会が戦国武将の茶の湯の最初だと。

 さて、「天下三肩衝」とはその政長が所持していた新田肩衝初花肩衝楢柴肩衝とされる。
このうち楢柴肩衝は、「御狩する狩場の小野の楢柴の 汝はまさに恋ぞまされる(『万葉集』)の歌に因み名付けられた足利義政の所持していた東山御物であったが、その後持ち主は転々として博多の島井宋室の手に渡っていた。
”名物狩り”をしていた信長は他の2つは手に入れたが、この楢柴は我が手にすることができなかった。

そして、これらの「天下三肩衝」は天下人となった豊臣秀吉、徳川家康が手中にし、楢柴は明暦3年(1657)の大火で破損したのを修繕したものの、その後所在不明となった。 しかし、残りの2つ新田肩衝と初花肩衝は現在もそれぞれ徳川記念財団と徳川ミュージアムが所蔵している。


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