2015年11月

「安土宗論」

Tohaku 三好長治に呼ばれ阿波での「宗論」(1575)に来た日珖上人は、信長のおひざ元での「安土宗論」にも顔を見せている。

天正7年(1579)信長の命により安土城下の浄厳院で行われた浄土宗と法華宗との宗論で、目付け役には森蘭丸があたった。

ことの発端は、辻説法をしてた浄土宗の長老に法華宗が議論をふっかけたことで、各地から僧侶が集まり大騒ぎとなった。
そこで、信長が南禅寺の景秀鉄叟(けいしゅうてっそう)と安土に来ていた因果居士とを審判にして法論が行われた。

法華宗側の日珖は「方座第四の『妙』」の問いに口を閉ざして応えられず、群衆に打擲され僧や宗徒は逃げ散ろうとしたが捕らえられた。
事を起こした大脇伝介はただちに斬首され、堺に逃げていた建部紹智も逋脱されて斬首された。
信長は、「今後は他宗を誹謗しないとの誓約書を出せ」と申し渡し詫び証文を出させた。

 三好実休が土地を寄進して堺に妙国寺を開山した日珖は日蓮宗を代表する高僧で教えを受けたものも多い。
狩野永徳らと並び称せられる桃山時代の絵師・長谷川等伯(1539-1610)と親しかった日蓮宗本山・本法寺の住職・日通は日珖に仕えていた。
等伯は日珖(堺の豪商・油屋伊達常言の子)の地・堺にもしばしば出向き、自らも信仰を深めて、死後は本法寺に葬られた。


実休と根来衆

三好義賢 茶といえば長慶の弟・三好実休(1527?-62)は天下無双の名物「三日月の葉茶壺」のほか50種類もの名物を所有していた。

その実休(最近では「義賢」の名は疑問視されている)が戦死した「久米田の戦い」(1562:現岸和田市周辺)に何故根来衆が加わっていたのかという話。

 根来寺は、境内の広さは36万坪、寺領72万石、堂塔450余(室町末期)を誇る新義真言宗総本山で、僧兵「根来衆」を1万人も抱えていたという。(後に秀吉の「根来攻め」(1585)でほとんどの堂塔が焼失した)

実休は兄・長慶や十河一存が臨済宗大徳寺北派大林宗套や笑嶺宗訴に帰依したのとは異なり、法華宗頂妙寺第3世日珖に帰依し別邸を寄進するとともに、妙国寺を創建(土地を寄進)している。 
日珖は堺の豪商で茶人の油屋常言の子なので、実休は経済的支援を得ようと考えていたのだろうと。 (日珖上人は天正3年(1575)実休の子・長治の招きで阿波での真言宗との「宗論」に渡来している)
このようなことから畠山高政(紀伊・河内守護)とともに根来寺とも対立するようになっていた。

 昨日、11月28日は根来寺では「かくばん祭り」が行われた。
この「覚鑁(かくばん)」(1095-1143)は新義真言宗の開祖であり根来寺を興した。(ちなみに覚鑁が高野山で最初に仕えた人物は阿波出身の青連上人という高野聖)
「かくばん祭り」の呼び物は鉄砲隊。 根来寺には種子島に伝わったばかりの鉄砲(1543)が持ち込まれ鉄砲隊が組織されていた。

実休は「久米田の戦い」で、本陣が手薄になったときに後方から根来衆の鉄砲隊に撃たれ戦死したとされていたが、「流れ矢」、「矢」または自害したのではとの説もあるようだ。 
(天野忠幸著「三好長慶」参照)

「新田」の行方

新田 水戸黄門、そして茶が話題に上がったので、水戸徳川家に伝わる名品、唐物肩衝茶入「新田」のことを。

「初花」、「楢柴」とともに”三肩衝”とされる「新田」の名がどこで付けられたのかは定かでない。

また、所有者の変遷についても、①細川晴元大友宗麟→豊臣秀吉 ②村田珠光→三好政長(宗三)→織田信長→大友宗麟→豊臣秀吉などとされているが、三好政長(~'49)が所有していたものの信長に献上したというのは合点がいかない。(信長は’34年生まれで’46年に元服、’59年に初上洛)

三好長慶と戦った細川晴元(~1563)から大友宗麟の手に渡ったというのはどういう経緯からだろうか。
’58年11月六角義賢の仲介により主君である将軍・足利義輝と長慶は和睦、5年ぶりに京に入洛し、諸国の大名と修好に図り、大友宗麟は足利将軍家にもっとも親しい守護大名で、この時期多額の献金(3,000貫)をして新たに豊前・筑前・筑後三ヵ国の守護に任ぜられ(豊後・肥後と合わせ合計6ヵ国)、九州探題にも補任されている。 しかし、この和睦のさいにも晴元は坂本に留まっているのだが・・。

 とにかく、名物「新田」は家康が大坂城落城の跡から回収して修復された。
元は海松色(みるいろ:黒色がかった黄緑色。英名オリーブ・グリーン)であったのが黒褐色となり、三肩衝の第1位であったのが「初花」にその地位を奪われたとか。

 ところで、徳川光圀の名は3代将軍・家光から一字もらったもので、中国の史書『晋書』の「徳龍興して大國を光有す」に由来するものだが、晩年大国を光有するのは大名の職ではないとして國を圀と改めたのだと。

「喫茶去」

02-1 北条時頼は京都に追随するのではなく、鎌倉に新しい武士の文化を築こうと建長寺を創建した。(1253)

建長寺の初代住持となったのは蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)。
当時、中国ではモンゴルの勃興により南宋はしだいに衰退しつつあり、多くの僧侶が渡海してきており、道隆もそのひとりだった。

執権にとなった時頼は、積極的に中国文化を取り入れようと、中国で盛んであったが京都では既成の仏教団の勢力が強くて限定的にしか受け入れられてなかった「禅」に目をつけ建長寺を日本初の禅の専門道場とした。
そして、後に京都・建仁寺も円(天台)・密(密教)・禅の三宋兼学から臨済禅専門に改めた。

蘭渓道隆亡き後には子・時宗の招きで無学祖元(1226-86)が来日し、建長寺第5世住持となっている。

 建仁寺を開いたのは臨済宗の開祖・栄西(1141-1215)で、彼は日本に茶を飲む習慣をもたらした。
鎌倉に下った栄西は北条政子の帰依を受け、二日酔いに悩む3代将軍源実朝に『喫茶養生記』を献上している。
栄西が茶を勧めたのはもっぱら健康のためであったが、後に儀式化され「茶道」という日本独自の文化が生まれることとなった。(「仏教を歩く 栄西」朝日新聞出版参照)


「いざ鎌倉」

tokiyori ここまで傀儡将軍をたてて鎌倉幕府を陰で操った執権・北条時頼(1227-1263)を悪人扱いしてきたが、水戸黄門のモデルとも云われ人間味あふれた名君だったとの評価もあるようだ。

寛元4年(1246)病弱だった兄・経時に代わり19歳で第5代執権に就いた時頼は、「宝治合戦」(1247)で最大の御家人・三浦一族を滅ぼしてその地位を盤石なものにした。

建長4年(1252)には4代将軍九条頼経に続いて5代将軍藤原頼嗣も京都に追放して、新たに御嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を擁立するとともに、評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公平や迅速化を図った。

 また、庶民の救済策も積極的に打ち出し”仁政”を施したことからさまざまな逸話や伝説が各地に生まれた。
能「鉢の木」では、ある雪の晩に上野国・佐野に住む所領を失い落ちぶれた佐野源左衛門常世の家に旅の僧(実は時頼)が宿を借りに来た。 僧をもてなす焚火にすら困窮している常世は、秘蔵の鉢の木を伐って薪にする。「落ちぶれはしてもひとたび事があるときは、一番に参上する」と「いざ鎌倉」の覚悟を語る。  

関八州に鎌倉招集の軍令が下ると、みすぼらしい姿で馳せ参じた常世は、そこで旅の僧が回国修行の最明寺入道時頼だったことを知る。
時頼は常世に所領を安堵し、さらに梅・桜・松の鉢の木に因んだ新領地三か所を与えた・・。




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