2015年12月

無名庵

ootu_0056_s 「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」(又玄)

義仲は死を覚悟で粟津に向かい、氷の張った深田に馬の脚をとられて兼平の方を振り返った時、顔面に矢をうけた。(何と射止めたのは前記事の中原親能との史料もあると) 

粟津ヶ原にある義仲寺(現・滋賀県大津市馬場:写真)の寺伝によれば、巴御前がこの地に草庵をむすび義仲を弔ったと云われ、「無名庵」と呼ばれていた。

 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)8月21日に150日におよぶ「奥の細道」の旅を終えて大垣に到着し、25カ月ほど畿内に逗留して同4年(1691)9月28日江戸に帰った。

しかし、新しい芭蕉庵で2年暮らしたあと再び江戸を出発し、同7年(1694)5月28日ふるさと伊賀上野に入り、6月中旬から7月初めまで、無名庵を本拠にしている。

9月9日大坂に入った翌日の晩、芭蕉は悪寒・頭痛に襲われ、20日ごろには一時治まったものの、29日には床に伏すようになり、次第に容態は悪化。 そして、12日申の刻(午後4時頃)51歳の生涯を閉じた・・。

死後、去来・基角ら10人の弟子たちが芭蕉の「亡骸は木曽塚に送るべし」との遺言にしたがって遺骸を義仲寺に運び、14日に門人80名、会葬者300余人が参列して葬儀が営まれた。


もう一人の中原氏

imageIJM 高越寺領の地頭であった中原親能(1148-1209)と同時期のいたもう一人の中原氏中原兼遠(?-1181?)。

久寿2年(1155)源義賢は武蔵野国比企郡大蔵館で甥の”悪源太”義平(義賢の兄・義朝の長男、頼朝の兄)に討たれた。(「大蔵合戦」)
その際、義賢の遺児・駒王丸は斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられ養育されたのが後の木曽義仲である。

 義賢の死によって、母とともに京にいた義仲の唯一の兄・仲家は源頼政に引き取られて養子となっていた。
治承4年(1180)5月、以仁王と頼政による平家打倒の計画が露見し、17日嫡男・仲光とともに宇治平等院あたりで平家の追討軍に討たれて戦死したことで、「兄の無念を晴らしたい」との思いが義仲挙兵の要因だったとも。

義仲四天王の樋口兼光、今井兼平も兼遠の子。
寿永3年(1184)1月、頼朝の命で弟・範頼、義経が入京し、義仲はひとり北陸に落ち延びる手筈であったが、今井兼平が奮戦する琵琶湖のほとりの粟津に向かった。
命を落とすことを承知で最後の戦いにのぞんだが、このときには兼平、手塚別当とその嗣子・光盛そして巴御前の唯の四騎となっていたと・・。 最後は眉間に敵の矢を受け、それを見た兼平は太刀を口にくわえて馬から飛び降り自決した。

「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」


「情」を重んじて逆境に挑んだ義仲を慕う芭蕉が詠んだ句で、芭蕉は義仲寺に眠る義仲の墓の傍に葬られることを望んだ。

 ところで、義仲の妾(妻ではない。妻は藤原伊子)巴御前も兼遠の子で兼光・兼平の妹。
「色は白く髪長く、容顔まことに優れ、一人当千の兵(つわもの)なり」と『平家物語』に記され、粟津原から落ち延びたが捕らえられ、鎌倉に送られて和田義盛の妻となったと。
しかし、女武将・巴御前については脚色が加えられているようだ。
(「2015.7 歴史街道 木曽義仲」参照

大江広元との遠い縁

高越寺山門 義経からの起請文、腰越状を頼朝に取り次いだ大江広元は地元・高越寺とわずかな繋がりがある。

以前にも記事にしたが、高越寺は鎌倉時代を通じて九条家に伝領され、地頭には中原親能(1148-1209)が補されている。

大江広元(1148-1225)の出自は諸説あるようだが、母の再婚相手・中原広季の元で養育されたと。(広季が実父とも)
親能は広季の子であるから、ふたりは義兄弟の関係にある。
広末が鎌倉幕府の公文所の別当となったのも、頼朝と親しかった親能の推挙によるものだと。

 頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものだといい、頼朝亡き後も後家・北条政子や執権・北条義時と協調して幕政にあたっている。

中原親能は、寿永2年(1183)10月頼朝に代わって義経とともに上洛したが、この頃は義経の名は京では知られておらず、親能が総大将だと思われていたと。

 室町時代となり細川氏が入国して地頭を追い、その管理職を奪って所領を自己の荘園とした。





ふたりの義経

宇治川の先陣争い 寿永2年(1183)7月木曽義仲が入京した当時、義経といえば山本義経のことだった。

この、もうひとりの義経も新羅三郎・源義光の4代後裔で、山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。
以仁王の平家追討の令旨(1180)により旗を挙げた諸国の源氏に同調して、11月20日弟・柏木義兼ら近江源氏とともに兵を挙げた。
以仁王を討死させた平家の有力家人・藤原景家を討ち取り、仇を討った人物でもある。

12月2日、平知盛を大将軍とする追討使が派遣され山本山城が落城して逃れ、土肥実平の案内で頼朝に拝謁したと『吾妻鏡』には記されている。 この時、平泉から頼朝のいる黄瀬川宿駆けつけた(源)義経と顔を合わせたかどうかは定かでない。(義経と頼朝の対面は「富士川の合戦」(10/20)の翌日)

 寿永2年(1183)山本義経は頼朝の元を離れて義仲の軍勢に加わり、7月27日比叡山に逃れていた後白河法皇が都に戻る際には、子・錦部義高が警護し、義経は京を警備する武将のひとりに配置されている。

28日義仲が5万の軍勢を引き連れ入京した際には、山本義経は子・義高とともに都に入った。
しかし、義仲軍は乱暴狼藉を働き、次第に後白河法皇とも対立し、11月には法皇を幽閉して政権の掌握を図った。

年が明けて翌寿永3年(1184)1月20日、近江まで迫った義経・範頼軍との戦いとなったが、この頃には脱落者が続出、義仲の軍勢は千騎ほどに激減していたと。 
義経軍2万5千騎が宇治を突破し(「宇治川の先陣争い(写真)はこの時のこと)、100騎余りの義仲軍も奮戦するも敗れ、粟津に逃れたものの範頼の大軍に討たれた。

 この「宇治川の戦い」の際、山本義経の子・義弘は戦死し、義経は義高とともに行方不明となり、以後消息は不明とのこと・・。





「逆櫓論争」

6-1 元暦2年(1185)2月18日源義経は摂津国渡辺津(大阪市東区)から屋島の平氏討伐のため阿波に向けて出港した。

その前日の軍議で梶原景時が「逆櫓を付けてはどうか」と持ち出した。 逆櫓(さかろ)とは舟が後ろにも進めるように舟の先端にも櫓をつけること。
強い北風が吹き荒れていたので、いつでも撤退できるようにとの提案だった。

義経が「戦には一歩も引くまいとの気持ちが大事で、最初から撤退の準備をするなど」と言うと、
景時は「優れた大将軍というは、進むべき時には進み、退くべき時には退くものだ。ただ闇雲に攻めるのは猪武者というものだ」と反論して口論となり一触即発の事態となった・・。

その夜、義経はひそかに船出しようとしたものの船頭が渋るので、佐藤嗣信と伊勢義盛に命じて船頭を脅して、二百艘いた軍船のうち五艘150騎だけで出港。
通常3日かかるところをたったの三時(6時間)で渡り切り午前6時頃には阿波勝浦尼子ヶ浦に到着したと。
 
 この「逆櫓論争」が景時の反感を呼んだのか、「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります・・。」との義経を批判する手紙を頼朝に送ると頼朝は激怒。

これを知った義経は忠誠を誓った起請文を大江広元を通じて送ったが頼朝は取り合わず、義経が捕虜の平宗盛を護送して鎌倉に向かったものの鎌倉入りを許されなかった。 また、腰越(鎌倉市)から弁明の「腰越状」を広元に託したが、結局は京に追い返されてしまった。

9月2日梶原景季(景時の子:「宇治川の戦い」で名馬・”池月”佐々木高綱と先陣を争った)が義経に味方する源行家の追討指令を持って来たが、義経は体調不良を理由に断った(しばらく待ってくれとも)と知った頼朝は義経を討つことを決意する・・。

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