2016年02月

「レグニツァの戦い」

08cc32 既に総合優勝を決めていたが、またも完璧なジャンプで高梨沙羅がV!

第16戦はカザフスタンのアルマトイという馴染みのないところだったが、そんなことはお構いなし。素晴らしいの一語に尽きる。

 アルマトイは三蔵法師も旅した大清池(イシク・クル湖)のすぐ北にある。
法師はタクラマカン砂漠を超え、トルファン、クチャから湖の南側を通りトクマクに入り、突厥のヤブグ可汗に歓待されている。
まだまだ旅は半ばではあるが、前記事のモンゴル軍はポーランドまで遠征している。

1241年ポーランド西部のレグニツァでドイツ連合軍を蹴散らし、ドイツ語でのワールシュタットは「死体の山」を意味すると。

   モンゴル帝国第2代皇帝オゴデイのとき、西方遠征軍のジョチ家主バトゥは5万の兵と2万の徴用兵などでキプチャク草原の諸国を征服して3月12日ハンガリーに侵攻。
4月9日「レグニツァの戦い(「ワールシュタットの戦い」)ではおよそ2万5千の敵兵を打ち破ったばかりか、一連の戦いで15万人もの戦士を殺戮した。
ポーランドを席捲し、バトゥはオーストリアのウイーン近くまで迫ったが、皇帝オゴテイが急死したことで撤退をはじめた・・。

「春霞」

DSCN0077 「鳶飛んで 天にいたれる 霞かな」(幸田露伴)

春らしく暖かい一日だったが、ひどく霞んでいたのは黄砂だろうか。

黄砂には「霾晦(よなぐもり)」という別名もあり「霾(つちふる)」は春の季語にもなっている。


「ジンギスカン 走りし日より 霾れり」
(有馬朗人)

 ジンギスカン(1152?-1227)は黄砂の発生源でもあるモンゴル高原を統一してユーラシア大陸を席巻し、孫・クビライ(1215-1294)は1271年国号を「大元」(大元大モンゴル国)として、1274年にはモンゴル・高麗連合軍が博多湾に現われた。

 この最初の元寇「文永の役」では10月20日に上陸したものの、何故か日没とともに引き上げ、翌朝「神風」により壊滅したとも云われるが、この時台風が来たという記録はないようだ。

元軍のほとんどは急造の高麗と旧南宋軍で、軍船は無理なスケジュールで造らされた脆弱なものだったようで、
また、騎馬民族であるモンゴル軍は航海術にも疎く、通常は行わない夜間航行を強行したことにより台風でもなかった強い波風に破壊されてしまったのだと・・。

「100日天下」

Napoleon_sainthelene 2月26日は1815年ナポレオンがエルバ島から帰還した日でもある。

しかし、ナポレオン神話の復活は6月18日の「ワーテルローの戦い」での大敗北で崩れ去り、22日に退位「100日天下」で終わった。
10月15日には大西洋の絶海の孤島セントヘレナ島に流刑され、二度と帰ることはなかった。

 そもそもナポレオンの失敗はロシア遠征(1812)にあった。
9月16日、40万の軍勢でモスクワを占拠したまではよかったが、ロシア軍は市街に火を放つ焦土作戦によりモスクワは火の海。

そのうち雪がちらつく10月なったので19日に退却を決定したが、ロシア軍の追撃やコサック兵、農民のゲリラ活動により11月下旬には生存者は5万人以下に激減していた。 食料も十分でなく11月末凍りついたベレジナ川を渡るときにはさらに2万人が死んだと。

ベレジナ川はベラルーシの中央部を流れる河川で、第2次大戦の独ソ戦でもドイツ軍がミンスクに退却する途中に殲滅されたところ。 このことから「ベレジナ」は災難や災危の代名詞にもなっていると。

 ところで、ナポレオンは後方支援の確保せず現地調達を原則とし、「戦争は戦争を養う」としていた。
一方、「2.26事件」が起きたころ日本陸軍も「戦いは創造の父、文化の母である。・・・生命の生成発展、文化創造の動機であり刺激である」との『陸軍パンフレット』(「国防の本義とその強化の提唱 昭和9年10月)を発行し、政府や政党をそっちのけにして公然と政治に介入するようになっていた。

2.26事件と「相沢事件」

26事件 今日は2月26日、TVではここ数日間何度も「2.26事件(昭和11年)が取り上げられていた。

その中で、「忠臣蔵」、「桜田門外の変」そして「2.26事件」とがともに雪の降る中で行われたのは、偶然ではあろうが何か日本人の感性を刺激するのだろうかとの指摘は興味深い。(1936年のこの日東京では35.5㎝の積雪を記録している)

この時期、暗殺事件や未遂事件が続いていたのだが、軍部はこの事件を一種の脅迫材料にして要求を通し戦争への道が着実に拓かれていくことに・・。

半年前の昭和10年(1935)8月12日朝9時半過ぎ、陸軍省軍務局長・永田鉄山は局長室に入ってきた相沢三郎陸軍中佐に「天誅!」と切り付けられ間もなく死亡。(「相沢事件」)
また、「天皇機関説」を唱えた美濃部達吉(1873-1948)は、クーデターの直前の昭和11年(1936)2月21日右翼の暴漢に襲われ負傷している。

 この頃、皇道派(天皇親政の下に国家改造する)と統制派(軍を統制し合法的な国家改造を図る)の対立が強くなっていた。
10年7月皇道派の真崎甚三郎教育総監が更迭されたが、それは統制派による皇道派追放の陰謀でその黒幕は永田鉄山との怪文書が出回り、これに相沢は刺激されたと。

「2.26事件」の計画がつくられたのはその10年8,9月頃とされ、青年将校の多くが所属する第一師団が2月末には満州に派遣されることになっていたので26日に決行されたが、
「相沢事件」により盛り上がった雰囲気の中で統制派を追い落とし「維新」を成し遂げようとしたとも。
もし、「相沢事件」がなかったら「2.26事件」も不発に終わったも知れないと。
 (大内力「日本の歴史24」中央公論社 参照)

「第二次上田合戦」での三好為三

上田城 「落ち行けば 地獄の釡を踏破り 阿呆羅刹に 事を欠かん」

『真田三代記』における「大坂の陣」での三好伊三入道の辞世の句。
講談「真田十勇士」では、幸村に家康か秀忠を討ってほしいと頼まれ、もう少しのところで果たせず兄・清海入道とともに自害したと。

 しかし、史実では徳川秀忠が真田昌幸・信繁父子がこもる上田城を攻めた「第二次上田合戦」の時既に兄は亡く、弟・為三(いさん)は逆に秀忠方に加わっており、功績を挙げて河内に飯盛山城の北部を含む2千石余の所領を与えられており、「大坂の陣」にも徳川方で出陣している。

この従来三好政康・政勝とされていた兄弟は、最近では兄・政康は
政勝→政生→釣竿斎宗渭と改名しており政康の名は一次史料にはなく、政勝とされていた弟は一任、一任斎為三と称され実名は定かでないとされる。

同族ながら三好長慶に討たれた三好政長(之長の弟・長尚(勝時)の子)を父に持つこの一族は、こうして幕末まで旗本として生き延び、為三は秀忠の御咄衆となり96才の長寿を全うして寛永8年亡くなった。 ※
兄・政康は三好之長の次男・頼澄の子との説もある。 (天野忠幸著「戦国期 三好政権の研究」参照)


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