2016年03月

ツバメ来る

20004b  はや今年もツバメが飛来した。

「千里来て はや巣繕ふ 燕かな」(清水取作)

「社燕」とも云われ、「社日」の頃にやってくるようなので、格別はやいことではないようだが・・。

今年の社日は3月17日。
春の社日は「春分の日」にもっとも近い戊
(つちのえ)の日に産土神に五穀を供えて豊作を祈願するという中国伝来の習慣。

 飛来する時期は年によってかなり違うようだ。
春先の気候が暖かいときは早いようで、これはシベリヤ方面の高気圧がはやく衰え、北・北西の季節風がやわらいでツバメには追い風気味になるから。 だいたい朝方の気温が10度以上になる頃だと。

一度巣をつくった家には必ず忘れずにやってくる義理がたい鳥でもある。
昔は、門口や窓を開け放していたことから家の中に巣をつくっていたりもしたが、最近の家の構造やそれを嫌う家も増えほとんど見られなくなった。

「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」、「ツバメの巣が粗末なときは豊作」などと生活に密着した諺があった。
前者は、湿度が高いとエサとなる昆虫も羽が重たくなって低く飛ぶからのよう。
最近、全国的にはツバメを見かけることが少なくなったのだとも・・。 ともかく春を感じさせてくれる風景ではある。 
(大後美保編「季語辞典」参照)


飯尾常房と細川成之

飯尾常房墓 連歌師・宗祇の姓は飯尾氏だとも云われる。

「なれや知る 都は野辺の 夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」


「応仁の乱」で荒れた京の模様を詠んだ飯尾彦六左衛門常房(1422-85) は父・真覚(因幡守久連)とともに阿波守護・細川持常~成之に仕えた重臣・奉行人だった。

「彦六」は飯尾氏の世襲輩行名で、「左衛門尉」「因幡守」は世襲官途。 この頃が阿波細川氏250年間の最盛期でもある。

 真覚は、永享(1429-40)~文安(1444-48)時代の壮年期には阿波に在国して持常の舎弟・成就院増顕を補佐しつつ、阿波・讃岐の経営に寄与し、寛正(1460-65)時代には在京して宿老中最重臣の一人として成之の庶政を担当した。その評価は「後見無双」だったとされる。(当時は守護のみならず守護代も京に常駐していた)
この真覚の和歌も残っている。

「小倉やま ふもとののへの はなすゝき ほのかにみゆる 秋のゆふくれ」


 成之の時代には、領国は阿波・三河のほか丹後・備前の一部に拡大し、また讃岐国も実質的に支配権を有していた。
しかし、「応仁・文明の乱」、「両細川の乱」などにより時勢は急変し、領国維持も困難な状態となった。
そんな中にあって、成之は将軍、細川一門の信頼を得て、幕政に寄与し宗家を支えた。 一時、宗家と険悪な関係になったものの、卓越した識見と政治力により比較的平穏に領国を維持した。

信仰心に厚く、風流をたしなみ、和歌・絵画・能楽・造園などに造敬が深く当時を代表する文武両道に優れた雄将であったが、嫡子・次男と相次いで後嗣を失い、年老いては宗家に入った孫・澄元の行く末に心を砕く波乱の人生だった。
 成之の死によって阿波細川氏も次第に権威を失い、やがては下剋上・戦国の風潮に浸潤されていく・・。 (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」参照)

 

細川成之と連歌

  Hosokawa_Shigeyuki「端午の節句」、「七夕」も道教に由来するのは、五節句は陰陽五行説に基づくものだが、陰陽道思想、五行思想などの「陰陽道」は道教の要素に過ぎない。

五節句は1/7「人日
(七草粥)」、3/3「上巳」、5/5「端午」、7/7「七夕」と9/9「重陽(菊の節句)」のこと。

9月9日の「菊の節句」は宮中の重要な行事でもあったが、現在ではこの節句は忘れられたかのよう。 
ちなみに、「長崎くんち」(10/7-9)は「九日
(くにち)」に由来するとも云われ、旧暦の9月9日に行われていた。
「草の戸や 日暮れてくれし 菊の酒」(芭蕉)
 
 なぜ、9月9日にこだわるかと言えば、その日が命日である阿波守護・細川成之(1434-1511)の記事をもう1件書きたいからである。(12日とも)

三好長慶が「連歌」に長けていたことは何度か触れたが、成之も勝るとも劣らない腕前だったようだ。
それは、宗祇(1421-1502)が撰集した『新撰菟玖波集』(1495)に道空法師の名前で15句も搭載されていることからも分かる。(宗祇については芭蕉も「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶におけるその貫道する物一なり」と評価している。)
 
 ところで、 『新撰菟玖波集』の撰集には陸奥国・会津猪苗代の城主の家に生まれた猪苗代兼載(1452-1510 北野天満宮連歌会所奉行 野口英世はその後裔)が宗祇の補佐にあたっているが、成之の句の搭載作品数をめぐて宗祇と争論したと。

明応元年(1492)、兼載は阿波の成之を訪問し、『薄花桜』(連歌体作法の書)を贈っている。
光勝院(大麻町)、里のあま(里浦町)、慈雲院(丈六寺:徳島市)に少なくとも5月から8月まで滞在し、成之は連歌会を催し歓迎している。 

「郭公
(ほととぎす) いつを五月の 初音かな」(兼載:光勝院にて) 

成之『新撰菟玖波集』から
「花匂ふ 山路のこけを かたしきて かすむたかねを こえのこしつゝ」

よし野河 いはきるなみを 袖にみて こころこそおもひ人ぬる しるへなれ」  (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」参照)
 

八幡さんと道教

川田八幡神社  現代の日本人には道教は馴染みがうすいが、「八幡大神」も道教にかかわりがあるといえば身近に感じられる。

八幡大神のルーツは道神の最高神である「玉皇大帝」だとの説もあるのだ。
八幡さんは源氏の氏神、武神として全国何処にでもある最も普及している神社である。

清和天皇を祖とする源義家(1039-1106)は「八幡太郎」として知られ、その4代後が頼朝。
鎌倉時代、「承久の変」の後に佐々木氏に代わって阿波の守護となった小笠原氏
(後の三好氏)の祖も義家の弟・”新羅三郎”義光であり同族だ。

 高越寺は頼朝の直領であったし、川田八幡神社にも建久八年(1197)「右大将頼朝公一門繁栄子孫豊楽、殊者大檀那小笠原長経・・」との棟札がある。
また、南北朝時代に細川氏が入部し、細川氏も清和源氏の名門足利氏の支流であったことから厳島神社を八幡神社に改め、嘉慶二年(1388)細川頼有の棟札が伝わる。

全国には4万にも上る八幡神社は、聖武天皇(701-56)による大仏建立のさい銅の生産や鋳造技術を持っていた宇佐神宮が協力して天皇の庇護を受け、また八幡神を石清水八幡宮へ勧進して創建した。
また、鎌倉幕府が守護社に鶴岡八幡宮を勧請したために広がった。

 ところで、本元宇佐八幡宮の祭神は八幡大神・比売大神
(ひめのおおかみ)・大帯姫命(おおたらしひめのみこと)とされ、それぞれ応神天皇・宗像山神・神功皇后とされているが、これは平安時代になって神功皇后と応神天皇の母子の物語が八幡信仰(母子信仰)に結びついたもので八幡神=応神天皇と単純に結びつけられないとも・・。

「福禄寿」

Fukurokuju 福寿草から七福神の「福禄寿」のことを。

「七福神」は道教の「八仙」
(八人の神仙)が元になっているようだ。
「道教」 の影響は日本にもいろいろな場面に見られるが分かりにくい宗教でもある。

道教は「不老長寿」と「現世利益」をもたらしてくれるとされ、三国時代(220-280)、六朝時代(317-589)には皇帝の庇護を受け、唐の時代には王室の宗教として国教に近い存在だったのだと。

 しかし、元々は自然発生的に生まれた土俗信仰で時代とともに変化しており、日本に渡来したものも日本的に変化している。

飛鳥時代から平安時代初期にかけて多くの道教が持ち込まれたのは、中国唐では道教がもっとも栄えた時代であったから。
平安時代から鎌倉時代に独自に発達した陰陽道も道教の中のひとつだったと。

 前記事の3月3日の「ひな祭り」とともに、当然のごとく定着している年中行事5月5日の「端午の節句」も、コイノボリは日本で生まれたものだが、ヨモギ餅を食べ菖蒲湯に入るなどの風習は中国『刑楚歳時記』
(6世紀)に登場している。

7月7日の「七夕」も、道教の神・西王母が織女に変化したもので、遅くとも奈良時代には伝わり、江戸時代には現代のような形になったようだ。 
その他、春と秋の七草がゆ、「還暦」の祝いの赤い着衣、左義長、庚申信仰、荒神さん、鬼門等々、数えたらキリがないほどだ・・。
 (千田稔・高橋徹共著「道教の謎」参照) 
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