2016年04月

「安宅水軍」

6da2  三好長慶の二弟・安宅(あたぎ)冬康(1528-64)については「国家を懐(いだ)く仁将なり」(『南海治乱記』)と称され、和歌や「大高麗(荒木高麗)」を所持した茶人でもある他は語られることも少ない。

広く知られる「安宅
(あたけ)船」の由来はどうも安宅氏・安宅水軍には関係なさそうだが、安宅氏は紀伊国日置川を根拠として熊野水軍の流れを汲む水軍で、戦国時代には阿波三好氏の勢力下で淡路十人衆と云われた諸氏による水軍を構成していた。

冬康が安宅氏の養子となったのは、長慶が越水城に入った天文8年(1539)頃のことだが、十人衆のひとり野口氏に長慶の末弟・冬長が養子となった時期は定かでない。 

 鎌倉時代、淡路国三原郡野口村
(現・三原市善光寺野口)にいた菅道忠なる者が志知松本(現・三原町)に城を築いて志知家、野口に残った菅氏が野口家のようだ。
冬長は兄・三好実休が天文22年(1553)主君である細川持隆を殺害した折、それに反発した家臣と争った「槍場の合戦」で戦死している。

後に長宗我部元親に通じた菅達長(みちなが 通称・平右衛門 ?-1615がいる。
毛利氏が信長と争ったとき冬康の長男・信康は信長に降ったが、達長は毛利方につき天正4年(1576)信康の守る岩屋城が毛利軍に攻められ落城すると達長が城主となっている。

信康は天正6年(1578)に死亡し、次男・清康が洲本城・由良城を拠点として後を継いだが、毛利氏に内応したことから同9年(1581)信長の四国攻めの際、秀吉・池田元助らに攻められ降伏、所領を没収されて紀伊に追放後病死して淡路安宅氏は滅亡した。
(※近年、信康・清康の名称は疑問視されている)

伊予出兵

Niihama_city 宇摩郡(四国中央市と新居浜市の一部)と新居郡(新居浜市の大部分と西条市の一部)をめぐる阿波細川氏と伊予河野氏の争いは、永禄元年(1381)細川氏がを所領化して沈静化していた。

しかし伊予では応永24年(1417)河野宗家と湊山城
(松山市三津浜)に拠る河野分家(予州家)が対立し混乱していた。

予州家は伊予守護・河野教通の祖父・通義の弟・通之を始祖とし、その孫・通春(1421?-82)が継いでいたが、「嘉吉の乱」(1441
赤松満祐が将軍・足利義教を謀殺した)を機に対立が激化。
管領・細川勝元は反細川勢力である河野氏の勢力削減をにらみ分家・通春を支援していたが、寛正3年(1462)秋頃には強調関係が崩れ通春が挙兵したため、勝元は阿波の細川成之に出兵を要請した。

この結果、通春は東から細川氏、南から喜多郡守護で幕府評定衆である宇都宮氏、西海からは大内氏に攻められることになった。
ところが、大内氏は密かに通春に通じていたようで同6年(1465)9月16日には伊予井付
(場所特定できず)において勝元軍と通春・大内連合軍が合戦となって土佐守護代・新開遠江守(後の阿南・牛岐城主・新開実綱の祖父)が戦死したと。
大内氏は細川氏と対外貿易で瀬戸内海の覇権を争っていたことがその背景にあったようだ。
 
 通春の反乱は結末を見ないままに「応仁の乱」が発生し戦火は全国に拡大。 大内氏・細川通春は反勝元の山名持豊軍に合力して上洛した・・。

「応仁の乱」が終結してから2年後の文明11年(1479)になって、細川成之を継いだ次男・義春
(当時12歳)が管領・細川政元の指示により土佐・讃岐勢とともに再び出兵している。
細川氏に降った通春が再び反乱を起こしたのが原因で、河野宗家とともに通春を制圧したようだ。

 明応2年(1493)細川政元が将軍・足利義材を叛して義澄を擁立。
義材は防州・大内義興を頼って逃れていたが、永正4年(1507)政元が暗殺されると、大内義興は義材を奉じて上洛を開始し、義材は翌5年(1508)6月再び将軍の座に就いた。
以来10年間、細川高国・大内義興の連合政権が続き、阿波細川家は成之の死(1511)もあって衰退することになる・・。 
(若松和三郎著「阿波細川氏の研修」参照)
 

海賊大名

河野通直供養塔 三島村上三家は理念上主家を河野氏としていた。

瀬戸内海における代表的大名である河野氏は村上水軍を家臣団として束ねていた。
河野氏は十四世紀末頃には本拠地を風早郡河野郷から湯築に移り、道後温泉や石手寺・宝厳寺などを含む城下町を形成した。

ところで、室町時代を通じて河野氏は東伊予の宇摩
(四国中央市と新居浜市の一部)・新居郡(新居浜市の大部分と西条市の一部)は支配することができなかった。

十六世紀中期長宗我部氏の以降の両郡は分郡守護細川氏の支配から離れ、阿波三好氏と姻戚関係を結んだ石川氏の配下にあった。
(弘治年間(1555-58)高峠城主・石川道清は三好長慶の娘を娶り、三好氏に通じていた)

 しかし、天正9年(1581)以降両郡は長宗我部氏の支配圏に組み込まれ、そして同13年(1585)6月末、秀吉の「四国攻め」が始まると宇摩・新居郡は最初の攻撃目標とされた。

7月、有力家臣であった金子元宅らが籠もる高尾城は2万とも3万ともいわれる小早川隆景軍に包囲され落城、元宅も討死。 
続いて高峠城が攻められ、若年(8歳)であった石川虎竹丸は、石川氏の本拠地である金子山城を守っていた元宅の嫡男・毘沙寿丸とともに土佐に落ち延びた。 

 8月末には河野氏の湯築城も攻囲され、伊予守・通直は小早川隆景の薦めにより開城し伊予全域が制圧されている。
この通直は、来島水軍・村上通康の子であり、先代・河野通宣に子がなかったことから養子となった実質的に河野氏の最後の当主である。

ところで、通康の妻は毛利元就の娘が嫁いだ宍戸隆家の娘であり、元就の曽孫にあたることから、通直政権は毛利氏・小早川氏の強い影響化にあったようだ。
 (写真は通直の供養塔。 藤田達生著「秀吉と海賊大名」参照)
 

「日本最大の海賊」

能島  「”日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島」が日本遺産に登録されたと。

能島は来島、因島とならぶ三島村上氏の中でも「最大の海賊」と恐れられ「能島殿」と呼ばれた能島村上氏当主・村上武吉(1533-1604)の本拠地。

周囲わずか約800mで、地図で確認するのも難しい小さな島だ。
鵜島と伯方島に挟まれた船折瀬戸は芸予諸島を東西に斎灘
(いつきなだ)と燧灘(ひうちなだ)を結ぶ最短ルートであるが、難所中の難所で能島はその船折瀬戸をにらむ格好の位置にある。

ここの最頂部標高31mに本丸を築き、さらに二の丸・三の丸と出丸を築いて四方に睨みを利かした。
さらに能島だけでなく鵜島、鯛崎島と一体になっていたようで、伝承では50mしか離れていない鯛崎島との間に橋が渡されていたという。

 宣教師ルイス・フロイスは『日本史』の中で、「日本最大の海賊」で、「最高の海賊としてその座を争ってきたのは能島殿と来島殿」と記している。

能島村上氏の史料初出は貞和5年(1349)と最も古く、伊予・河野氏の家臣に組み込まれた来島氏とは異なり、諸大名から自立的な立場を保ち畿内から九州までの広い地域を支配した。
戦国時代、大友氏・大内氏・毛利氏・浦上氏そして三好氏とも通じたことがある。
(別記事2015.6.17「村上武吉と阿波」、2016.2.1「長房の備前侵攻」参照)
 
天正16年(1588)秀吉の所謂「海賊停止令」により、竹原(現広島県竹原市)に移住されられ、その後小早川隆景に従って村上武吉・元吉父子ともに筑前国加布里(現福岡県前原市)に移った・・。 (「戦国海賊伝」笠倉出版社参照)

 

「こんふらりあ」

20131002_ricori_54 16世紀から17世紀初頭にかけてキリシタン信徒は40万とも50万ともいわれる。

キリシタンは一向宗とともに短期間の内に民心をとらえて共同体を形成し、全国規模のネットワークを機能させた。 

従来の日本における八百万の神を対象とする他神崇拝宗教とは違い、両派とも「唯一」のデウス、阿弥陀如来を対象に全面的帰依して、他宗を認めない信仰形態であることが共通しており、一向宗が主流を占めていた摂津・河内地域には受け入れる素地があった。

 永禄7年(1564)飯盛山城で長慶の家臣73名がキリシタンとなったが、その中でも三箇伯耆守頼照は「最も信仰の厚いキリシタンの一人」(フロイス)で「島の中にある教会」は 「最も堅固な柱の一つ」となり、天正7年('79)までには信徒数四千人を数えたと。

また、 後('68)に三好義継に仕えた池田丹後守教正もその一人であり、前記事に紹介した義継の妹が嫁ぎ三好を名乗った孫九郎・の父多羅尾綱知とともに「若江三人衆」として若江城を守っている。
のちに教正は八尾城主となり天正7年('79)頃、八尾に教会堂がつくられ信徒八百人が誕生した。

  一向宗門徒は村落に「惣道場」、「講」組織をつくって地域社会に根を張るとともに、全国的ネットワークを形成し結束を図っていた。
畿内一円には寺院を核とする「寺内」領域を設定し、周囲に環濠をめぐらして町屋を抱え込み「一向一揆」の拠点ともなった。

キリシタン信徒も13世紀のヨーロッパに起源をもつ「兄弟会」を下敷きとして、日本においても「慈悲の組」(Confraria do misericordia)と呼ばれる絆の強い民衆共同体がつくられ。 その形と機能はきわめて似ていた。

  前記事の高山右近父子(現・大阪府豊能郡高山出身)の先祖は真宗(一向宗)門徒で、高山家は俗道場の指導者だったようだ。
天正2年('74)高山の領民(約5万人の門徒)は荒木村重と高山右近によってキリシタンへの集団改宗が行われた。

このように三好長慶が飯盛山城に移った1560年から70年にかけての摂津高槻・茨木、そして飯盛山麓の河内ではキリシタンがしっかり根を下ろしていたと。
 (摂河泉地域文化研究所編「飯盛山城と三好長慶~摂河地域のキリシタンと戦国宗教史:川村信三」参照)
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