2016年05月

「ホトトギスの兄弟」

ホトトギス  「あるところに二人の貧しい兄弟がいた。 兄は目が悪く、いつも家に閉じこもって暮らしていた。

そんな兄のために、弟は山へ行って芋を掘ってきて食べさせていました。
自分はまずいところばかり食べ、兄には美味しいところを食べさせていた。

ところが、兄は「自分のがこんなにウマイのなら弟はどんなにウマイものを食べているのだろうか」と邪推し、弟を殺して腹を割いてみると芋の筋ばかりだった。

兄は自分の心がひねくれていたことに気づき「すまない、すまない」と後悔し、 ホトトギスとなって「弟恋し、弟恋し」と鳴くようになったと」

松永久秀離反の理由

Kuroij 将軍・足利義輝暗殺は三好義継・三好長逸と松永久秀の息子・久通らによるものだが、久秀は奈良にいたとしても全く無罪、知らなかったとは言えないだろう。

ところで久秀の弟・松永長頼は武勇にすぐれ、久秀の出世は長頼の七光りだとも云われるほど。

天文22年(1553)、丹波・八木城を攻め取り内藤氏の名跡を継いで内藤備前守、宗勝を名乗っていた。
しかし、永禄8年(1565)8月2日荻野(赤井)直正の居城・黒井城(写真)を攻撃中に戦死。 これにより丹波における三好氏の勢力は大きく後退、三好政権退潮の引き金となった。

このときからである。松永久秀が三好三人衆と対立を深めたのは。

 11月16日、三人衆は飯盛城を急襲して三好義継を高屋城に移し久秀と手を切るよう求め、多聞山城の久秀と一触即発の情勢となった。
この内訌を見てスキを狙う畠山・遊佐・安見氏らの河内旧勢力を加え、三つ巴の内乱が大和・河内一帯に拡大した。


翌9年(1566)6月11日には篠原長房が阿波軍一万五千を率いて兵庫に上陸してひとまず安定を取り戻すと、8月23日将軍職を熱望する阿波公方・足利義栄も摂津・越水城に入った。

ところが、同10年(1567)2月16日義継は自分が無視されることに腹を据えかねたのか久秀の元に身を投じたのである。
これに気をよくしたのか姿をくらましていた久秀は4月6日多聞山城に戻り、再び戦乱のるつぼに陥った。
そして、 三人衆は奈良に進軍し、東大寺を本拠として久秀方と対峙し、10月10日亥の刻大仏殿に火の手が上がる・・。(「東大寺の戦い」)

 畿内の人心は完全に三好氏・松永氏を離れ、義栄は摂津で将軍位を受け希望を果たすが、それも束の間同11年(1568)9月26日信長が足利義昭を奉じて上洛し、三好政権は風前の灯火となる・・。 (今谷明著「戦国三好一族」参照)

 

2つの二条城

402f  「五月雨は 露か涙か ほととぎす 我が名を揚げよ 雲の上まで」(足利義輝)

永禄8年(1565)5月19日、三好長逸、松永久通
(久秀の嫡子)は軍を率いて二条御所と呼ばれた室町第を襲い将軍・足利義輝を殺害した。(「永禄の変」)

前年7月4日、長慶が没し三好政権は求心力を失い退潮は明らかで、義輝が傀儡政権に甘んじるような人物でないこともあり、阿波公方・足利義栄の擁立を目論んだと云われるが、若年の後嗣・義継(15歳)は器量に乏しく、畿内の人々は「ひとへに三好滅亡の端なり」と噂していたと。

義輝はこの状況をみて室町第の堀・土塁・塀などを修築して不測の事態に備えていたようだが、奉公人・奉行衆約30人ばかりでは「衆寡敵せず」。 いかな剣客であろうとも2時間あまりの抵抗の末に、最後は槍で足を払われ、転倒したところを障子を押し被されて上から槍でとどめを刺された・・。 

 現在の二条城は徳川家康が宿所として築城したもので、足利氏・織田氏・豊臣氏の時代それぞれに「二条城」と呼ばれるものがあった。
足利尊氏から義満まで3代にわたって二条に屋敷を構えたところから「二条城」「二条陣」と呼ばれ、義輝が居城としたものは「二条御所武衛陣の御構え」と称された。
斯波氏の屋敷跡に築かれたもので、「武衛」とは斯波氏の職名に由来し、現在も旧二条城跡地の地名は「武衛陣町」となっている。 
しかし、完成を見ないまま「永禄の変」が起こり、跡地には真如堂が移築された。

弟・義昭のために信長が永禄12年(1569)に築城した「二条城」は、義輝のものと関係なく二条通からも遠く離れていた。
建物の多くは本圀寺から移築するとともに、細川藤賢の屋敷から名石「藤戸石」も搬入され本格的な石垣を積んだ城であったと。 
また、跡地からは金箔瓦も発掘されており豪壮な殿舎だったようだ。

その後、義昭が信長に反旗を翻したことで追放の後に破壊され、天守や門などは築城中の安土城に転用されたと。

足利義昭の子弟と阿波

c101  三好三人衆に謀殺された足利義輝に道鑑という遺児がいたのも驚きなら、弟・義昭にも義尋(1572-1605)という子がいた。

義昭が信長により追放されたとき、わずか1歳であった義尋は人質として信長に預けられ出家させられた。
(一説には義昭に代わって将軍に擁立する構想があったとか)

大乗院門跡となったが、のちに還俗し二人の子をもうけた。
二人の子どもはそれぞれ実相院門跡・円満院門跡の大僧正となり、女人をた断ち子をもうけなかったので足利家嫡流は断絶した。

義昭には足利周暠しゅうこう ?-1565)という弟もいた。
幼いころから相国寺塔頭・鹿苑院の院主になっていたが、長兄・義輝が「永禄の変」で三好三人衆に謀殺されたときに殺害された。17か18歳であったと。 
 
  ところで、第3代阿波平島公方・足利義種の妻・祐賀は周暠の孫だとされる。(『阿波足利家文書』)
祐賀には光義・秀景・朝能という三人の兄があって、最後のカトリック司祭ディオゴ結城(結城了雪)はこの朝雪(結城喜太郎)と同一人物であると。

ディオゴ結城(1574-1636)は阿波で生まれたとも云われ、慶長19年(1614)高山右近らとともにマニラに追放された。 その後極秘で帰国したが寛永12年(1635)阿波国大坂峠で捕縛され「穴吊りの刑」に処せられた。

「穴吊りの刑」とは、掘った穴に汚物を入れ、そこにこみかみを傷付けられて逆さに吊るす刑。
(傷は血を噴出させるため)
平成20年11月、ディオゴ結城は「福者」に列せられている。 

忠利と道鑑

Hosokawa_Tadatoshi  宮本武蔵を召し抱えた肥後熊本藩主・細川忠利忠興(三斎)の三男。

「関ケ原の合戦」のあと徳川との関係を重視して、長男・忠隆とその妻・美香院
(前田利家の娘)の離縁を命じたが反発し廃嫡されたため、家康の元に人質に出されていた忠利が家督を継いだ。(次男・興秋は忠興の弟である常陸矢田部藩主・細川興元の養子となっていた)

 室町時代、阿波の守護でもあった細川氏は、足利尊氏に従い畿内・四国を中心に8ヶ国の守護職を占め、三管領として斯波氏・畠山氏とともに代々管領に任じられた。

細川家の嫡流である「京兆家」は細川頼之が管領職とともに摂津・丹波・土佐を、次弟・詮春は阿波を、三弟・頼有の子孫が和泉守護家を、四弟・頼元は管領家を継ぎ、五弟・満之は備中を、彼らの父・頼春の弟・師氏が淡路国の守護となっている。

 しかし、 戦乱の時代にその全てが断絶する中で和泉上守護家・細川元常の弟・晴員(将軍家側近・三淵晴恒の養子)の次男・藤孝(1534-1610)は伯父・元常の養子となり、将軍・足利義輝に仕え三好三人衆らに謀殺された後には義昭を擁立し、信長に従い丹後宮津11万石の大名として生き延びた。 
その後、秀吉、家康に仕えて肥後藩細川家の祖となり、忠興はその長男である。


永禄8年(1565)、第13代将軍・足利義輝が「永禄の変」により謀殺されたとき、側室が懐妊しており近臣に守られて讃岐国横井城主・尾池光永に匿われて出産後養子となったという。
尾池義辰(?-? 通称玄蕃。出家後は道鑑で、生駒氏に仕えて2,000石を拝領したと。

藤孝がかって将軍・義輝や義昭に仕えたいたこともあり、その孫にあたる忠利は閉居していた道鑑を大坂屋敷に招き、寛永14年(1637)にはその子・伝右衛門、藤左衛門は肥後熊本藩でそれぞれ1,000石を与えた。

また、忠利はこの将軍・足利義輝の子道鑑と剣豪・宮本武蔵を山鹿温泉に招いたとの記録も残っていると。

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