2016年07月

マラッカ海峡

105196-yana シンガポールはマレー半島の突端部にあるジョホールバルとジョホール水道で隔てられている。 マレー半島を迂回する狭い海の街道が”マラッカ海峡”だ。

ディズニーの新作「アリス・イン・ワンダーランド2~時間の旅」では、アリスの「ワンダー号」が嵐の中を海賊に追われ、彼女の機転で岩礁の中を切り抜け危機を脱する場面から始まる・・。

 マラッカ海峡は全長900㎞、幅65~70㎞だが、シンガポール付近では2.8㎞の狭い場所もあるとか。
そのうえ、岩礁や小さい島に浅瀬が多く海の難所。 現在も減少しているとはいえ海賊が出没するらしい。

 15世紀には港市国家マラッカ王国が栄えていたようだが、1511年ポルトガルが15隻の軍艦で攻撃し占領。
その後1641年にはオランダ、19世紀初頭にはイギリスが支配するようになった・・。

1951年、ディズニー映画「不思議の国のアリス」の主題歌である「アリス・イン・ワンダーランド」は、ジャズのスタンダードでもあり、デイブ・ブルーベック&ポールデスモンド・クァルテットやオスカー・ピーターソン・トリオ、そして極め付けはビル・エバンスとスコット・ラファロの掛け合いが素晴らしい名盤『ワルツ・フォー・デビー』でも聴かれる。

ブキテマの戦い

Yamashita_and_Percival シンガポールは「東洋の牙城」、「東洋のジブラルタル」と呼ばれる難攻不落の要塞だった。

山下奉文中将率いる第25軍はマレー半島に上陸して55日後に、幅1㎞のジョホール水道に到達。

 2月9日から3方向に分かれて渡河したものの、一進一退の攻防を繰り広げていた。
「紀元節」(2月11日)までには攻略したいと考えていたようだが、英国軍の反撃が続き厳しい状況にあった。

 その11日からのシンガポール島中央部の”ブキテマの戦い”では、激しい抵抗に遭った。
15日には日本軍の弾薬が枯渇し、司令部は焦燥感をつのらせ、山下軍司令官が戦闘指揮所まで出向いて督励し、第一八師団長牟田口廉也中将は連隊長にお別れを言いに行ったと。

しかし、水のないシンガポール島の水源地を占領し、ジョホールからの送水管を遮断したことにより、午後8時には英軍が降伏したとの連絡があり、8日目にして戦闘は終結した。

 フォード自動車工場で山下司令官とパーシバル英軍司令官の降伏談判の席上、「イエスかノーか」と詰め寄ったとの逸話がよく知られているが、これは通訳者が日本語が堪能でなく山下司令官が腹を立てて「まずは降伏する意思があるかどうかを聞いてくれ」と通訳者に言い放った言葉のようだ。

ともかく、午後10時には停戦が決まり、シンガポールの戦いは日本軍の勝利となり、資源を確保するための「南方作戦」はこの後フィリピンでも勝利し、各地で南方作戦は大成功をおさめ有史以来の大勢力圏を手に入れた・・。 
(「日本軍の激闘の真相」彩図社 参照)

10年目の報い

Matsunaga_Danjou 「草枯らす 霜又今朝の 目に消えて 報(むくい)のほどは 終(つい)にのがれず」

これは、三好長慶の次弟・実休の辞世の句。

実休は天文22年(1553)6月17日、主君である阿波守護・細川持隆を見性寺において殺害した。(「勝瑞事件」)
その10年後の永禄5年(1562)3月5日、畠山高政との「久米田の戦い」で根来衆の鉄砲に討たれ戦死。

「勝瑞事件」の直後、8月1日に兄・長慶は将軍・足利義輝を近江朽木に追放し三好政権の権威を示したが、実休は兄・長慶に歯向かう細川晴元と通じる動きを見せた主君・持隆を許せなかったのだろう。

しかし、持隆を主君と仰ぐ久米義広らの反感を買い「鎗場の合戦」(6/17)という阿波を混乱を招いたことから、「
(むくい)」を覚悟していたのだろうか・・。 

  一方、松永久秀は一度ならずも二度までも信長に背き、天正5年10月10日信貴山城で名器・平蜘蛛の茶釜とともに爆死したが、この日は皮肉にも東大寺で三好三人衆と争って大仏殿を焼失させてからちょうど10年目のことであった。
その後、大仏殿が再建されたのは江戸時代・宝永6年(1709)になってからのことで142年後のこと。

神仏の報い・祟りを久秀が自覚していたかどうかは分からないが、壇ノ浦の戦いのあと捕らえられた平重衡(清盛の五男)は「南都焼討」(1181)の恨みから南都衆に引き渡され、元暦5年(1185)6月23日木津川畔で斬首され奈良坂の般若寺門前に梟首される前、面会が叶った妻に「あまりにも罪が重い報いなのであろうか」と。

「せきかねて 泪のかかる からころも 後の形見に ぬぎぞかへぬる」と妻の要望に応えてしたためると、
「ぬぎかふる ころももいまは なにかせん けふをかぎりの 形見と思へば」と妻・大納言佐は返した。


「イエスかノーか」

Prince_of_Wales 中国と日本がマレーシアでの高速鉄道建設をめぐって受注競争をしているとのニュース。

首都クアラルンプールから第2の都市ジョホールバル、そしてシンガポールまで結ぶ計画だと。

 ジョホールバルといえば、’98ワールドカップ仏大会に初出場を決めた”
ジョホールバルの歓喜”で知られるが、 太平洋戦争で真珠湾攻撃より1時間20分前にマレー半島に上陸した「マレー作戦」(司令官・山下奉文中将)で は翌1月31日にジョホールバル市に突入、2月8日にはシンガポールに上陸。 
わずか2カ月足らずでイギリス軍を降伏させた。 
この時、パーシバル英司令官に「イエスかノーか」と降伏を迫った名文句は有名。

 一方、日本海軍も南進する日本軍を阻止するためシンガポールに派遣された新鋭艦『プリンス・オブ・ウェールズ』と巡洋艦『レパルス』を、12月10日陸上攻撃機による波状雷撃攻撃で撃沈し、世界を驚かせた。(「マレー沖海戦」)

この第1航空部隊の指揮官・松永貞一少将は、松永久秀の嫡男・久通の子の末裔。
久通は父・久秀とともに「信貴山城の戦い」(1577.10.10)で自害し、織田家に預けられていた二人の子どもは落城前に京都六条河原で処刑されているが、もう一人彦兵衛という子がいて筑前に移り住んで質屋を営み豪商となって後に佐賀藩士となった。貞一はその子孫だと。

維盛入水

那智の滝 滝といえば西日本では那智の滝が日本三大滝のひとつ。

「倶利伽羅峠の戦い」(1183.4)で木曽義仲に大敗した平家軍の総大将・
平維盛(1158?-84?)は、都落ちの後「一ノ谷の戦い」(1184.2 または「屋島の戦い」とも)の前後に屋島の本陣から抜け出して熊野三山に参詣した後、那智の浜から船出をして入水自殺したと。

清盛の嫡男・重盛の長男で美貌の貴公子として光源氏の再来と称せられたが、治承3年(1179)、父・重盛が病死し平氏の棟梁は叔父・平宗盛となり、妻が「鹿ケ谷の陰謀」で殺害された藤原成親の妹だったこともあって、後継者としての地位も危うくなっていた。

 翌4年('80)9月、挙兵した源頼朝追討軍の総大将として東国に向かったが、「富士川の戦い」では飛び立った水鳥の羽音を夜襲と勘違いして総崩れとなり、わずか10騎ばかりの兵とともに帰京したが、激怒した清盛は入京を許さなかった・・。

養和元年(1181)閏2月に清盛が没した後、平氏の総力を結集した総勢10万とも云われる義仲追討軍の総大将となって北陸に向かったのだが、倶利伽羅峠で壊滅的敗北を喫し敗走した。

寿永3年
(1184)3月28日、維盛は那智の沖で念仏を百遍念じ、「南無」と唱えるとともに海に身を投げたと。享年27
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