2016年08月

円盤投げ

111 リオ・オリンピックではメダルラッシュで東京五輪への希望が膨らんだ。

「円盤投げ」という競技は馴染みが薄くあまり注目されることはないが、古代オリンピックから行われていた歴史ある競技。

その円盤投げが古代神話にも登場している。
前記事でアンドロメダを救ったペルセウスは女怪メドゥサの首を手にし天馬ペガサスにまたがり王宮に凱旋した・・。

 実はペルセウスは望まれて生まれた子ではなく、アルゴス(古代ギリシャの都市国家)王である祖父アクリシオスが、「孫に殺される」という神のお告げがあったので娘ダナエを監禁していたが、大神ゼウスが忍び込み産ませた子だった。

アクリシオスは木箱に母子を閉じ込めて海に流したが、ペルセウスは流れ着いた島でたくましく育った。
島の王・ポリュデクテスの誕生祝いのとき、貧しいペルセウスは献上品を持参することができず、王が嫌味を言ったので「メドゥサの首でもお持ちしましょうか」と返すと、ひそかに母ダナエに思いを寄せていた王は厄介払いができると「それは嬉しいの」とほくそ笑んだ。

そこにアテナ女神とヘルメス神が現れ盾・剣、それに空を飛べるサンダルを与えた。(実は大神ゼウスが困っている我が子を助けるため差し向けていた)

Medusaメドゥサを首を携えて王宮に帰り着いたが、母の姿が見えません。
母は王の乱暴に耐えかねて祭壇の陰に身を潜めて隠れていたのです。
怒ったペルセウスはは王のもとに向かい、「これがお望みのメドウサだ」と高々とメドゥサの首を掲げました。
たちまち王も家来たちも石になり果ててしまった・・。

 それから数年後のこと、競技会に参加したペルセウスは、円盤投げをしていたところ手元が狂い観客席にいた祖父アクリシオス王に当たり、神のお告げのとおり亡くなったと。
 (藤井 旭著「星座と星座神話 秋」参照)

秋の星座とアンドロメダ星雲

Andromeda_Galaxy 台風10号の余波でふるさとの夜空は雲が風に吹き飛ばされて、澄んだな秋の星座が美しく映えている。

星座通でもない自分は、まだアンドロメダ(M31)星雲を見たことがない。
確かカシオペアの右下近くに見えるはずなんだけど、今夜も双眼鏡の倍率を最大にしても星雲だけにボンヤリとして意外と見つけにくく確認することはできなかった。

 我々に最も近い銀河とは言いながら太陽系から230光年というとてつもない遠くにあり、直径は22~26光年で天の川銀河の3倍もあって月の5倍の大きさで見れるはずなんだが・・。

このアンドロメダ星雲は秒速300㎞という速さで地球に向かってきており、いずれ地球は飲み込まれるらしいが、それは30億年後のことで、それまで人類が地球上に存在し続けているかが問題だ。
Andromeda
アンドロメダ星雲は秋の星座の中で最も有名なアンドロメダ座を構成しており、アンドロメダは古代エチオぺア王家の妃で母・カシオペアが神にも勝る美貌と豪語して海神ポセイドンの怒りを買い怪物ケートス(ティアマート)の生贄にするため波打ち際の岩に縛り付けられた。。
そこにメドゥーサを退治して勝ち誇るペルセウスに救出され妻となった。

実休と利休の後妻・宋恩の縁

Rikyu 利休の妻については何度か記事にしているが、先妻「宝心妙樹」は長慶の妹、後妻「宋恩」は三好実休の近習だった宮王三郎三入の妻だった。

天文20年(1551)11月17日、実休(当時26歳)は初めて堺での茶会に名前を連ねているが、同年12月5日には「三入」宮王三郎(鼓の名手だと)の名も見え、この頃までに実休の近習となっていたよう。

三入は同22年('53)2月頃死亡したようで、妻ら遺族は実休の庇護をうけ阿波に来て、実休の没する永禄5年('62)まで10年間ほど居住した。
この三入の妻・宋恩が利休の妻「宝心妙樹」が天正5年('77)亡くなった後、翌6年('78)に後妻となっている。

三入と宋恩の間に生まれていた少庵の孫が利休の養子となり、後に表千家・裏千家・武者小道家の三千家となっている。(小庵の妻・亀は「宝心妙樹」の六女とされる)

 なお、「宝心妙樹」との嫡子・道安は、天正19年('91)利休が秀吉に追放され切腹した際、阿波に逃れたとの説があり、徳島市寺町・本覚寺には道安の五輪塔がある。 
(天野忠幸編「阿波三好氏」~若松和三郎「三好義賢雑考」参照)




  

「岩屋の太刀」

amagirijo 三好実休は千利休とは武野紹鷗の兄弟弟子で、永禄元年(1558)1月5日今井宋久、北向道陳(1504-62 堺の茶匠。利休の最初の師)とともに阿波に来国している。 

この年の6月9日から始まった京都奪回を画策する足利義輝・細川晴元と兄・長慶との「北白川の戦い」
(左京区北白川)では、苦戦する兄を応援するため、8月18日安宅冬康・十河一存、三好義興らとともに渡海し堺に上陸している。
結果、六角義賢の仲介で和睦が成立し、11月27日義輝は5年ぶりに近江から京都に帰った。

 渡海する前のこと。
西讃岐で多度・美濃・豊田・那珂の四郡を支配して容易に三好氏に従わない香川之景(1527-1600?)を討伐するため、阿波・淡路と東讃及び中讃以西の諸将も含めた総勢一万八千人の兵で天(雨)霧城を攻めている。(「善通寺の戦い」 別記事「天霧城」2013.9.8あり)
堅固な天霧城を攻めあぐね香西元成を介して和議を結び、旧領を安堵することを条件に畿内への軍役を要求しているので、「北白川の戦い」に之景も加わっていたのだろうか・・。(Wikipedia「香川之景」では永禄6年(1563)のこととしているのは誤りであろう)

 この香川家にまつわる伝承として、香川家の本拠地である相模国香川荘にいた頃、当主が狩りの途中で雨に遭い岩屋に駆け込んだところ老婆がいた。
人間でないと見抜いた当主は老婆を切りつけたものの刀はポキリと折れてしまい、老婆は傷ひとつしないばかりか、「この太刀を進ぜよう」と差し出したのが「
岩屋の太刀」で、以後香川家の家宝となったと。


  

  

その後の「実休光忠」

三好義賢 三好長慶の愛刀が「岩切海部」なら、実休も名刀と云われた備前長船光忠作「実休光忠」を所持していた。

光忠は鎌倉時代中期の備前国の刀工で、「長船派」の実質的な祖とされる。
備前国は古来刀剣の産地として優れた刀工が多く、長船派の他にも畠田派、福岡一文字、吉岡一文字、吉井派などが鎌倉・室町時代を中心に活躍した。

光忠は建長年間(1247-55)頃の人で、特に織田信長が好み20数振りも集め、最期の「本能寺の変」でも蘭丸に「光忠をこれえ!」と命じ、奮戦して18か所も切込みができていたと云う。

 元は甲州甲賀郡の三雲城主・三雲対馬守定持が所持していたとされ、定持の死後に実休が入手して「三雲光忠」と呼んでいたとされるが、
定持は上洛した織田信長に対して三好三人衆とともに六角義賢・義治父子らと抵抗したが、元亀元年(1570)柴田勝家・佐久間信盛らとの「野洲川原の戦い」で討死しており、実休が死んだ後のことで矛盾する。

ともあれ、「三雲光忠」は実休のものとなったが、永禄5年(1562)「久米田の戦い」において実休が戦死して畠山高政が手にすることになり、高政から恭順した信長に献上し信長は実休が所持していたことから「実休光忠」と称したと。

「本能寺の変」で焼身の後は、秀吉が見つけ出し焼き直して愛用し、その後徳川家康が手にしたと云うが・・。 
(別記事「実休”光忠”」(2013.5.31))
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