2016年09月

『雨だれ』

20195 降り続くこの雨はやはり異常気象なのだろうか。

あのショパンの曲に『雨だれ』というのがある。
『24の前奏曲』の中の15番目がそれで、ショパンが新婚旅行でマジョルカ島を訪れたときに書かれた曲。

1838年11月7日、フレデリック・ショパン(1810-49)は愛人ジョルジュ・サンドと、その連れ子2人とともにバルセロナから蒸気船でマジョルカ島に向かった。

ポーランド生まれのショパンは1831年パリに出て、翌年には若手作曲家、ピアニストとして知られるようになっていた。
しかし、当時のパリは暖房に用いる石炭の煙のせいで空気は汚れ、ショパンは結核を患った。
また、サンドの子・モーリスもリウマチであったことから、温暖な避寒地である地中海のマジョルカ島で過ごすことにした。

翌日、パルマに着き、港の北7キロほどにある田園地帯の貸別荘を借りた。
太陽は輝いて空は青く、紺碧の地中海はまぶしいほど美しかった・・。

 しかし、3週間ほど過ぎて12月になると、天候は一変。
大雨が降り夜中に部屋の中にまで浸水し、ショパンは寒さと咳で寝込んでしまった。
このことで結核であることが知られ、家主に立ち退きを迫られることになって、パルデモサという地の修道院に移ることになった。
大雨は12月から2カ月も降り続き、ショパンの持病はさらに悪化することになった・・。

実は、1835年に中米ニカラグアのコセグイナ火山が噴火し、この影響で偏西風が蛇行して気圧配置がに変動してマジョルカ島に低温と長雨をもたらしたのだと。

翌年2月、二人は島を離れることにしたが、後日「恐ろしい失敗だった」と語っている。
2月13日、バルセロナからマルセイユに移動して静養することにしたが、体調が戻ることはなかったという。
1847年、二人の関係は破局し、その2年後にショパンはパリで死亡した。 
(田家 康著「異常気象が変えた人類の歴史」参照)

その後の将軍義昭

Ashikaga_Yoshiaki 元亀4年(1573)7月、将軍・足利義昭が信長に追放されて備後・鞆の浦にたどり着いたのは天正4年(1576)2月のこと。

義昭が「本能寺の変」(1582.6.2)を知ったのは、おそらく6月10日も過ぎてのことだろうと。

「信長討ち果つる上は、入洛の儀急度馳走すべきの由、輝元・隆景に対し申し遣わす条・・・」と上洛のための世話をするよう毛利輝元、小早川隆景に勧めてほしいと頼んでいる。

また、次のリーダーとなった秀吉にも上洛を実現するよう黒田孝高(官兵衛)や蜂須賀正勝(小六)を通じて頼んでいるが、もはや相手にされなかった。

 義昭が帰京したのは天正15年(1587)になってのこと。
同年、九州征伐に向かう秀吉は備後国沼隅郡津之郷の御所付近に立ち寄り田辺寺で義昭と面会した。
義昭は前から島津義久に秀吉と和睦するよう働きかけていたこともあり、10月に和睦が成立し島津氏が秀吉の軍門に下ると、義昭は念願の帰京を果たした。 実に14年ぶりのことで既に51才となっていた。

そして将軍職を辞し(室町幕府消滅)、出家して昌山(道休)と号し、秀吉からは槙島に1万石の領地が与えられ、「文禄・慶長の役」には名護屋城まで出陣もしたが、晩年は秀吉の御伽衆として太閤秀吉の話し相手となり、歴代足利将軍の中では最も長命の61才で没した。

「五ヵ条の条書」と「十七ヵ条の異見書」

Ashikaga_Yoshiaki 信長は上洛の翌年(永禄12年(1569))早々の1月10日、三好一党による将軍の仮御所である本国寺襲撃を聞きつけ上洛したが、既に三好氏は引き上げた後だった。

この反省から信長は突貫工事で二条御所をわずか70日間で完成させ、4月20日には帰国し、10月11日にも上洛したが、この時は17日に帰国している。

突然の下向は「上意トセリアヰテ下了ト」(上意と競り合いて下りおわんぬと 『多聞院日記』)。つまり信長は将軍・義昭と衝突し腹立ちまぎれに岐阜に帰ったのだと。

 翌永禄13年(1570)1月23日付で信長はいわゆる「五ヵ条の条書」を義昭に呈出している。
第一条 大名たちに御内書で命令するときは、まず信長にその旨を知らせること。
第二条 これまでの御下知はすべて無効とし、あらためて考え直すこと。 等々

2月30日、信長は上洛し4月20日には3万の大軍を率いて越前・朝倉義景討伐に向かった。「元亀争乱」(4/23改元)の始まりである。
28日夜、越前を目の前にした「木の芽峠」で義弟・浅井長政離反と聞いて退却を決めた。世にいう「金ヶ埼の退き口」である。

この時、最大の難関朽木谷(滋賀県高島市)の朽木元網を説得したのが松永久秀、元網とは旧知の間柄であった久秀の取り成しで、信長が30日に無事京都にたどり着いたときには従者はたった10人ほどだったと。

 元亀3年(1572)9月、「十七ヵ条の異見書」が義昭に突き付けられた。
そこには強欲で吝嗇(りんしょく:ケチ)、幕府の人事・待遇も私情によって行われている。こんな有様だから諸侯たちもいくさに備えた嗜(たしな)みがなく、金銀を蓄えるのに夢中になっている。
諸事について欲深く、道理も見かけもかまわない。土民までも「悪しき御所」と呼んでいる。よくよく分別していただきたい・・。

義昭が信長打倒を宣言して立ち上がったのは翌4年(1573)2月13日のこと。
本願寺顕如が浅井・朝倉との関係を強め、畿内の国衆にも働きかけて「信長包囲網」を形成しつつあり、顕如とは相婿(妻が姉妹同士)である武田信玄が前年10月3日西方に向けて出陣した・・・。 
(谷口克広著「信長と将軍義昭」参照)

信長上洛と久秀

Odanobunaga 9月26日は永禄11年(1568)織田信長が足利義昭を奉じて上洛した日。 

9月7日、信長は尾張・美濃・北伊勢や三河の徳川家康の兵を引き連れ岐阜を発ち、近江では浅井軍も加わり、総勢は5,6万にも及んだと。

協力を拒んだ観音寺城(滋賀県近江八幡市)の六角承禎・義弼もあっさりと城を捨て逃げ去り、信長は13日に悠々と観音寺城に入城。多くの近江国衆も信長に降伏した。

ここで、岐阜にいた義昭に迎えの使者を出し、22日義昭は現・近江八幡市の桑実寺に来て信長と合流した。

これを見た三好三人衆らは京都を離れ、勝龍寺城(長岡京市)や摂津・芥川城(大阪市高槻市)、越水城(兵庫県西宮市)、滝山城(神戸市)に逃れた。

そして26日早朝、信長は入京して東寺(京都市南区)に本陣を置き、義昭は清水寺(東山区)に着陣。
ただちに、勝龍寺城や芥川城に兵をさし向け攻め落とすと、越水城・滝山城・伊丹城など多くの城は開城。 池田城の池田勝正も抵抗を示したが10月2日までには降参し、三好一党は阿波に退散した。
 
 芥川城にいた信長の元に松永久秀は”天下の名物”「九十九髪茄子」を土産に信長を訪問。
久秀は上洛前から信長に通じ、三好政生(政勝)を木津(木津川市)に引き付け、上洛を側面から支援していた。

久秀は信長に降伏したのではなく、信長とともに義昭の幕府を支えたのであり、後の元亀元年(1573)信長が義昭から離脱すると、義昭方として信長と戦い降伏し、ここで初めて信長に従属したのだと。

ともかく、三好義継は河内守護に任ぜられて若江城に入り、久秀は大和一国を「切り取り次第」とされ、佐久間信盛・細川藤孝・和田惟政ら2万の援軍が大和に送り込まれ、奪われていた信貴山城を奪還。
12月24日には岐阜に赴き、「不動国の刀」など諸名物を献上した。 
(谷口克広著「信長と将軍義昭」、天野忠幸著「三好長慶」参照)

「信貴山城の戦い」

Hisahide 松永久秀の最後の居城となった信貴山城(奈良県生駒郡平群町)は伊賀上野から45㎞ほどしか離れてない。 
途中には「柳生」、「多羅尾」など家康や「伊賀越え」に関係する地名が残る。

「無刀取り」を披露して子・宗矩を家康の兵法指南役にした柳生石舟斎宗厳(1527-1606)は、久秀に仕えていたことがある。 
「柳生新陰流」は久秀に仕えた「偉大な剣術家」結城忠正との交流から生まれたとも。

久秀が三好長慶の仇敵であった木沢長政が築いた信貴山城を修復・改修して入城したのは永禄2年(1559)のことで、この年の8月1日、三好長慶は高屋城主で河内守護・畠山高政を追放した守護代・安見宗房を高政の申し入れにより高屋城(大阪市羽曳野市)を陥れ宗房を追放した。(後に高政も背いたので三好実休を城主とした)
その8月8日に河内と大和を結ぶ要衝の地にある信貴山城に入城して河内の押さえとし、同時に大和支配の拠点とすべく僅か20㎞離れていない地に多聞山城(奈良市法蓮町)の築城を始めた。

久秀の家臣団には阿波出身者や久秀の出身地とされる摂津国島上郡五百住(よすみ:高槻市)や妻の実家(広橋家)からの登用者はほとんどおらず、京都近郊・奈良への街道筋や山科に限られていた。

 長慶の死後、三好三人衆・阿波三好家と敵対していた久秀は、永禄10年(1567)8月には足利義昭・織田信長と通じていたようで、翌11年(1568)6月筒井順慶・三好三人衆連合軍の攻撃を受け城を逃れ多聞山城に籠城していたが、9月29日上洛した信長の2万の援軍をうけ奪還している
。(「信貴山城の戦い」)


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