2016年10月

吉野川デルタと勝瑞

jyupouhoui 細川・三好氏が勝瑞を選んだのは、当時は旧吉野川が阿波と畿内と結ぶ水・海運の中心地であるとともに、木津から渭山城(徳島城)を結ぶ讃岐街道の交差点であったから。

中世の旧吉野川は別宮川(現在の吉野川)と比べて直線的で水量も多く、吉野川流域の水運のメインで港は旧吉野川河口に集中していたようだ。

木津は撫養街道の始点・終点で海路と陸路の結節点。また讃岐への玄関口であり、当時撫養は島で撫養街道は撫養には達していなかった。

 渭水城は北方と南方の境界・結節点で、近くには渭津という港があって、いくつもの小河川が乱流し多くの中州が形成され、これらの小河川は助任川によって一部別宮川と結ばれていた。

天正5年(1577)三好長治が細川真之を攻めたが逆に追撃されて、助任川で土佐泊城の森志摩守、撫養城の四宮和泉守に救援を待っていたが、中州をめぐる小河川は河道が複雑で潮汐によって水位・流速や向きが変化し案内な者には容易に入り込むことが難しかった。
志摩守は佐古山に麓に入り込み両者は落ち合うことができなかった。

仕方なく長治は別宮浦に向かったが、別宮の里長の密告により追い詰められ長原で自刃した。(長原と別宮は一続きで長原は別宮の枝村)

別宮も当時は島状の地形で、石清水八幡宮の萱島荘内にあり大山崎離宮八幡宮の油座神人による荏胡麻の積出港となっていて、三好氏の支配が及んでいなかった。
長治は別宮を経由することなく、助任川から海路で脱出しようと森・四宮水軍の救援を待っていたのだと。 
 (天野忠幸編「戦国大名と国衆10 阿波三好氏~戦国期吉野川デルタにおける勝瑞と港:山村亜希」参照)



「竹の秋」

DSCN0460 我が家の鉢植えの黒竹に花が咲いた。

何でも竹は六十年を周期として花が咲くと云われ、しかも、何故か近辺の竹が同時に咲いて一斉に枯死すると・・。

面白いのは「竹の秋」と言えば春の季語で、秋になって若竹が葉を茂らしているのは「竹の春」として秋の季語というからややこしい。

「おらが葉に 月おぼろなり 竹の春」(蕪村)

 竹といえば、『竹取物語』の最後の部分で、かぐや姫から預かった手紙と不老不死の薬を帝が駿河の国にある天に一番近い山の頂上で燃やしたというくだりが富士山の名前の由来だと。

そして、物語の舞台は奈良県であり、かぐや姫に求婚する五人の公達のうち安倍御主人(あべのみうし)、大友御行(おおとものみゆき)、石上麻呂(いそのかみのまろ)は実在する人物で「壬申の乱」(672)に関係する人物であること。
また、「かぐや」は「かぐやま(香具山)
」を連想させ、かぐや姫を迎えに来た天人は不老不死の薬と羽衣を持ってきたことから、

「春過ぎて 夏来るらし
白栲(しろたえ)の 衣乾したり 天の香具山(持統天皇(645-702)『万葉集』)

とは、前政権を暗示する天香具山から羽衣を盗もうとするクーデター、政変を予言した歌だとか。

阿波「天正4年の政変」

P3180213 天正4年(1576)12月阿波守護・細川真之は勝瑞を出奔し仁宇谷に入ったのは、信長による「三好政権」包囲網の一環だったと。

長宗我部元親が前年3年('75)8月に阿波国南方に侵攻し、続けて三好郡白地に攻め込み白地城主・大西覚用を服属させたという最中である。

海部の鞆城には次弟・香宗我部親泰を配するとともに、同じく海部の吉田城には北村簡斎、宍喰城に野中親孝など土佐勢を駐留させるとともに、桑野城主・東條関之兵衛には妻として養女(久武親信の娘または妹とも)を娶らせ、仁宇伊豆守とも縁戚関係を結んだと。

 阿波三好家当主・三好長治は天正元年('73)7月16日上桜城を攻め、篠原長房・長重父子を討ち滅ぼし、同3年('75)10月には法華宗を強制するという愚挙で騒動を起こしていた。

その長治は本願寺と組み、信長と対立していた。
そこで信長は三好家対策として細川真之に実権を取り戻そうと働きかけたもので、元親の阿波侵攻と一連の出来事だと。
この時一宮城主・一宮成助(祐・相)は細川真之側につき、元親や紀伊国に援軍を頼み(『昔阿波物語』)、伊沢城(阿波市)主・伊沢越前守頼俊(成助の妹婿)も加わった。

 立腹した長治は、同5年('77)3月上旬、荒田野(新野町)に出兵したが、挟み撃ちに遭い別宮浦(徳島市川内町)に逃れ森飛騨守の救援を待っていたが、28日自害して果てた。
阿波は戦乱渦中に陥り、対立抗争を繰り返すことになった・・。




元親の”四国統一”はされていなかった!?

Tyousokabe_Mototika 天正12年(1584)長宗我部元親は四国を統一したと云われているが、正確には「統一する直前だった」とも。

一般的には、阿波は岩倉城の落城(1579.12.27
「脇城外の戦い」)、「中富川の合戦」('82.8.28)で、讃岐は十河城の落城('84.6.11)、そして南予の諸領主と河野通直も降伏して「四国統一」がなったと云われている。

ところが、阿波の土佐泊城は落城しておらず、天正11年('83)12月4日三好存保は豊臣秀吉の援軍・仙石秀久と阿波河端城を攻めており、河野通直も降伏していなかったと。

 とは言うものの、大局的にはほぼ統一したと言わざるをえないだろう。
しかしながら翌13年('85)夏には秀吉軍による三方面から四国侵攻が始まり、羽柴秀長を総大将とする8万余騎の兵と大船600艘、小舟300艘という大軍が三好方の土佐泊城に入るとともに、讃岐には宇喜多秀家勢、7月には伊予に毛利勢を率いる小早川隆景・吉川元長が侵攻し、長宗我部勢は為すすべもなく降伏。

秀吉は8月4日、元親に土佐一国のみを安堵し、長男信親を大坂に住まわせ、次男・香川五郎次郎のほか家老を人質とした
。(次男・五郎次郎は病弱だったので三男・津野親忠が、家老は江村親頼・戸波親武の二人が人質になった。)  (平井上総著「長宗我部元親・盛親」参照)



ヤア!ヤア!ヤア!B・ディランがやって来る

664 ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したが、当の本人は何の声明も出していいないことが話題となっている。 しかし、そのことがかえって彼、ボブ・ディランらしいとも。

数年前から非公式には候補者に挙がっていたらしいが、すでに75歳ながら昨年も35作目となるアルバム『シャドウズ・イン・ザ・ナイト』を出し、今も年間100回を超えるツアーをこなしていると。

 1964年8月、ビートルズが2回目のアメリカ公演でニューヨークに滞在していたときディランがホテルにやって来た
ディランを連れて来たのは彼らの共通の友人でアル・アロノウイッツという『サンデイ・イヴニング・ポスト』に勤めていた人物で、彼はロシアにB・ディランとビートルズのレコードを持ち込んでいる。

ディランは早速”これ、ちょっと試してみなよ”とマリファナを取り出した。 彼はビートルズがドラッグを常用していると思っていたらしいが、リンゴ・スターはその時が初めての経験だった。

 ロバート・ジマーマンがボブ・ディランと名乗ったのは、ディラン・トーマス(1914-53)というウエールズの詩人の影響だったが、ビートルズのメンバーもみんなディラン・トーマスが好きだった。 

ともかく、ビートルズ全員がB・ディランのファースト・アルバムを持っていたようだし、初期のジョン・レノンのトレード・マークだった帽子はそのアルバムでディランがかぶっていた帽子で、ポールも「僕ら全員のアイドルだった」と述べている。

 両者には「アイ・ウォント・ユー」("I Want You")という同名の曲があり、2012年のディランのアルバム『テンペスト』(嵐)には「ロール・オン・ジョン」というジョン・レノンへの哀歌が含まれている。 
(「Beatles アンソロジー」参照)








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