2017年01月

楠木正虎

Emperor_Keitai 松永久秀に仕えた楠木正虎のことについては、あえて書く機会がなかった。

前記事で”たたら製鉄”が始まった6世紀の初頭の継体天皇のことから正虎の話に。

継体天皇(在位507-531)は”悪王”と呼ばれた武烈天皇が継嗣がないまま崩御すると、朝廷により後継者として応神天皇五世の孫という天皇家と血縁が薄く、しかも近江出身で越前で育ったといわれ王族とはいいがたい一地方豪族で、しかも58才の継体天皇が選ばれた。

 この様な異例な即位をした天皇に、南北朝の動乱期に足利尊氏によって擁立された後光厳天皇(在位1352-71)がいる。 先帝の指名や譲位もなく、しかも神器は南朝方にあるという中で即位している。

そんな中で、尊氏に京を追われ吉野に逃れた南朝・後醍醐天皇に仕えた人物に楠木正成がいる。
楠木正虎(1520-96)は正成の末裔を称していたのだが、時の北朝天皇や室町幕府にはばかって大饗長左衛門尉と名乗っていた。

久秀は本人が楠木姓を名乗りたいとの望みを知り、正親町天皇に執奏し、永禄2年(1559)天皇から正式に正成を赦免するという綸旨を得た。
これにより正虎は楠木姓に復し河内守にも任じられた。
正虎は飯尾流の能筆家でもあり、後に織田信長、豊臣秀吉の右筆としても活躍している。
  (天野忠幸著「三好一族と織田信長」参照)

桃太郎の鬼退治と吉備

03 少し気が早いが、立春のついでに節分の話題を。

節分といえば「鬼は外~」と豆撒きとともに、大阪が発祥の地とされる「恵方巻」をその年の恵方に向いて丸かじりするというのも全国的になっている?

 今年の恵方は北北西らしいが、昔話の「桃太郎」で一緒にに鬼退治をした猿・雉・犬も方位に由来するようだ。

鬼は鬼門(北東:丑寅)を意味することから、その反対の南西にあたる申(猿)・酉(雉)・戌(犬)があてられていると。

 「桃太郎」の話が生まれたのは、他の昔話と違って江戸時代の中頃から後期にかけてと新しいというが(室町時代とも)、その原型は『日本書紀』、『古事記』にもある国土平定のために第7代孝霊天皇の息子・吉備津彦(大吉備津日子命)が山陽道に派遣されたことだとされ、その弟が吉備の豪族の祖となったと吉備津神社(岡山市吉備津)に伝わっている。

桃太郎が「鬼が島に鬼退治に」行った鬼が島とは鬼城山(きのじょうさん:総社市)の鬼ノ城のことで、吉備津彦は鬼ノ城に住む恐ろしい温羅(うら:百済国の王子)を退治するために遣わされたと。 ちなみに、桃は古くから邪気を払う神聖な果物とされる。
 
 史実の鬼ヶ城は、「白村江の戦い」(663)で唐・新羅連合軍に敗れた大和朝廷が防衛のために7世紀後半に築かれた。

古代、吉備は大和政権に匹敵する勢力を有していて、大きな脅威となっていた。
5世紀には、吉備は古墳づくりで最盛期を迎えており、造山古墳(岡山市北区)は全長360mの巨大な前方後円墳で、強大な勢力を持っていたことを示している。

しかし、『日本書記』では3回にわたって吉備は謀反を企てたとされ(「吉備の反乱」)、その失敗により衰退していったとされる。

6世紀、中国山地と丹後半島でたたら製鉄が始まり、紀元700年頃には古墳はその役割を終え、古墳時代は終わった。


シャアラ小屋

011 盆小屋のことを川島町山田ではシャアラ小屋といった。

「精霊小屋」のなまりで、昔は盆の子供たちの大きな楽しみだった。

阿波北方の核村では七夕が終わると、10才から15才までの子供が家々を回って、ワラや竹、お金などをもらい集めて小屋をつくった。

牛打(飼)坊ともいい、牛を食い殺す魔物を小屋に閉じ込めて旧盆7月14日未明にその悪獣を焼き殺すのが起こりだという。

竹で組んだ小屋の中で、持ち寄ったごちそうを食べ、13日の夜か14日の未明には火をかけ「牛飼坊を焼き殺せ!」などとはやしながら小屋を焼き払う。

  昭和の初期まで川島町各地で盆小屋がつくられていた。
ある年、子供たちが小屋をつくっていると、どこからか牛が飛び出してきて子供たちを追いかけ回した。
子供たちは必死で逃げ回って、幸い怪我はなかったが、それから小屋はつくらなくなったと。

左義長が正月の火祭りにたいして、盆小屋は盆の火祭りで、もともと牛の守護神である野神さんのそばで行われたものが、盆に帰ってくる精霊の目印としての迎え火としてシャアラ(精霊)小屋となったのだと。
 (喜多弘・湯浅安夫共編「麻植の伝説」参照)

「春めく」

170128_1353~01 「春めきし 心は外に 向いてをり」(小川龍雄)

今日、1月29日が統計上最も寒い日が多い日だという。
それでも立春はすぐそこ、春は確実に近づいているのを感じる。

写真は近所で見かけた早咲きのタンポポ。 すでに梅の花も満開近く咲いているものもある。

 忘れられかけている明治維新期における地元の名士・芳川顕正のことを書いたが、明治6年(1873)現行のグレゴリオ暦が正式な暦とされた。
芳川は明治3年(1870)伊藤博文の命で理財・紙幣製造の研究のためイギリスに渡り、翌年8月に帰国。
同月「紙幣権助」、10月には「権頭」、同5年には「紙幣頭」となっている。

当時、大蔵卿大隈重信は明治6年が閏年で13カ月の給料を払わなければいけないので、ここで太陽暦を導入すれば1カ月分が節約できるうえに、明治5年12月3日が太陽暦の1月1日にあたり、改暦すればひと月分の月給を支払わずに済むと考えたのだと。

 立春は二十四節気のひとつ。
太陰太陽暦は古代中国の殷の時代に使われ始め、日本には6世紀頃に輸入された。
二十四節気は、太陰太陽暦の不都合を長い年月をかけて、太陽の運行に基づく農耕の基準点として考案されたもので、中国黄河流域の気候に基づいたものだが今も継承されている。(雑節は日本独自のもの)

大雪から立春ころが最も寒い時期であり、立春といっても寒さのピークではあるが、日本人は独自の季節感、「気配と兆しの文化」を築き上げてきた。

「袖ひぢて むすびし水の こぼれるを 春立つけふの 風やとくらむ」(紀貫之)

芳川顕正と伊藤博文

DSCN0082 - コピー 地元・山川町の名士・芳川顕正(1842-1920)の生家が取り壊されるという。

何でも改修費が4,500万にもなるので、壊して公園にするのだとか。

明治23年(1890)第一次山縣有朋内閣では文部大臣として教育勅語の発布した。 閣議では「忠孝仁義は古い」との反論もあったようだが、芳川は「道に古今の区別はない。」と論破したと。

その後も、松方~伊藤~桂内閣でも文相・司法・文部・逓信・内務大臣を歴任し、明治40年(1907)には伯爵に、大正6年(1917)には勲一等旭日桐花大綬章を受けている。
 
YOSHIKAWA_Akimasa 彼の飛躍のきっかけとなったのは、慶応3年(1867)藩の官費生として長崎に派遣されたときに後の伊藤博文、当時・吉村荘蔵に英語を教えたことだった。

伊藤博文(1841-1909)、本名・林利助は、何度も名前を変えている。
利助・利介・利輔→舜輔・俊輔→越智斧太郎→花山春輔・春太郎etcで、ほとんどが高杉晋作のアドバイスによるものだという。
「博文」も明治元年頃、高杉が『論語』の「博約以て文をなす」を引いて変えさせたもので、以後は変えることはなかった。

 徳島でも最も名を成した人物のひとりであり、その生家が取り壊されるというのはあまりにも悲しいことだ。
改修費4,500万は吉野川市の人口44余千人からすると、ひとり1,000円に過ぎないのに・・。


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