2017年04月

土御門上皇

tsuchimikado 土御門上皇が土佐から阿波に遷幸され、山崎忌部神社に詣でたときの歌が伝えられている。

「汲みてこそ 底意も志らめ 日ゑしてふ 峯の清水の もとの心を」

これは、鎌倉の水を汲ませ飲み給うたときの御歌で、「鎌倉の水」とは忌部神社の南に沸いていた泉で、源義経が屋島に向かう途中に忌部社に参拝して武運長久を祈った際に、この水を飲み剣を奉納したことに由来すると。

土御門上皇は中村山春宮城より出立して御遷幸され、この水を飲んだと伝わる。木屋平村には現在も春宮神社があり、祭神は土御門天皇。
(前記事「不思議な二つの神社」参照)

 小笠原長清(1162-1242)の跡を継いで阿波守護となった長経(1179-1247)は、貞応2年(1223)5月27日上皇を土佐から阿波に迎え新殿を造営したと。

その所在地は、鳴門市里浦町尼塚、大麻町池谷、藍住町勝瑞などとされ、嘉禄3年(1227)33才のときに土成町御所谷に移ったとも。

長経の子・長房が初代の阿波小笠原氏で、兄・信忠は信濃小笠原氏となっている。
長房は、三好郡郡領・平盛隆を討ち岩倉城を拠点とした。 
長房のあとは長久・長義・義盛・頼清と続き、13代目の義長のとき三好氏と名乗り細川氏に仕えたとされる。 
(喜多弘・湯浅安尾共編「麻植の伝説」参照)




V1,V2ロケット

SA-2 北朝鮮のミサイル発射は止まらない。
間違って日本に飛んで来たら、首尾よく撃ち落とせるのだろうか・・・。

弾道ミサイルの原型はナチス・ドイツのV-2ロケットだという。
1944年にパリに向けて発射されたのが最初で、終戦までに約3300発が発射され、そのうち1400発はイギリスに向けたもので、うち1115発が英国本土に到達したと。

飛行制御機能を有していたものの命中精度は7~17㎞と低く、ロンドンに向け発射された1152発のうち到達したのは517発に過ぎなかった。

 V-2は爆撃機1機ほどのコストを要したのに比べ、V-1はその10分の1程度で済むうえ、独特の唸り声を発して飛来するので市民に対する心理的効果もあり、V-1は24,200発も発射されている。
小型無人機のように主翼・尾翼・方向舵をもち、パルスジェット・エンジンにより飛行するV-1は、今の巡航ミサイルの原型だと。
 
 1960年、アメリカのU2偵察機がソ連により撃ち落とされた。
この地対空ミサイルはSA-2ガイドライン(S-75)で、液体燃料による2段式ミサイル。
(写真)
移動式トレーラーにより牽引され、ミサイルは地上から照射されたビームに乗って飛翔し目標に向かう。 
(「ミサイル・ロケット兵器図鑑」Gakken参照)


「天岩戸別」

Yakurahimejinja 大正・昭和・平成天皇の「大嘗祭」には、山崎忌部神社から麁服(あらたえ)が献上された。

大嘗祭は、天皇の即位の礼のあと行われる初めての新嘗祭(収穫祭)で、その前後には「大殿祭」が行われ、大殿祭は忌部氏が主導する祭りであった。

 忌部氏の遠祖である天太玉命は、天照大神がスサノオ神の乱行に怒り「天の岩屋戸」にお隠れになったとき天児屋命とともに祈祷し、少し戸を開いたときに天手力雄神(アマノタヂカラオノカミ)が扉を開け。天照大神は新殿へ遷った。

天手力雄(男)神は、ニニギの「天孫降臨」の際には、「五部神」の一柱として天岩戸別神とともに八尺勾玉・鏡・草薙剣と副え賜いて降り、「佐那の縣」降ったと。

 阿波忌部の祖・天日鷲命はこの天手力雄(男)神の御子と考えられていると。
また、『延喜式神明帳』に「天石戸別」のつく神社は全国に12社あるが、そのうち阿波徳島に2社ある。ひとつは「天石門別豊玉比売神社」で、あとは「天石門別八倉比売神社」。

「天石門別豊玉比売神社」は城山の西南にあった龍王社が擬せられていたが、現在は国瑞彦神社(徳島市伊賀町)に合祀されている。
豊玉比売命は、夫の山幸彦に海の神の霊力を授けて海幸彦を降伏させた聖母神で、豊玉比売命を祀る神社は全国の延喜式内社で阿波のみだと。

「天石門別八倉比売神社」は、徳島市国府町矢野(写真:通称”杉尾さん”)にある。八倉比売は天照大神の別名で、古代には大日霊女命(おおひるめのみこと)と呼ばれていた。

 徳島には八倉比売命や大日霊女(貴)命を祀る神社が19社もある。そして、村名に「佐那」をもつ佐那河内村には式内社ではないが天岩戸別神社(上字牛木屋)がある。
 ※「佐那の縣」は三重県多気郡多気町仁田あたりとされる。 (菅田正昭著「現代語訳 古語拾遺」、大西雅子著「阿波の古社めぐり」参照)

「菊の御紋」

80 「延喜式」で紫が最高位とされているのに、天皇家は藤や桐でなく菊の御紋とした。

何でも、後鳥羽天皇(在位1183-98)が愛用したことから始まると云う。
後鳥羽天皇は、第80代高倉天皇の第四皇子、安徳天皇の異母弟で、「承久の変」で自ら土佐に移りその後阿波に来た土御門天皇の父でもある。

 元暦元年(1184)、第81代安徳天皇が「三種の神器」を持ったまま京を離れたので、第82代天皇として即位した。
結局、「壇ノ浦の合戦」により宝剣は海中に消え、その後は他の剣で代用していたが、承元4年(1210)第83代土御門天皇から第85代順徳天皇に譲位されるとき、伊勢神宮から贈られた神剣を「草薙の剣」とした。(別の剣との説も)

承久3年(1221)「承久の変」を企て隠岐、順徳上皇は佐渡に流されたが、これも「治天の君」として譲位後も23年間にわたり院政を敷いたばかりか、土御門天皇を廃して寵愛する順徳天皇を立てるなどの横暴から自業自得とも。


「人もをし 人も恨めし あぢきなし 世を思ふゆゑに もの思ふ身は」(「百人一首」)

 後鳥羽天皇は刀を打つことを好み、その刀に十六弁の菊紋を入れた。こんなことから菊紋が広まり定着したのだと・・。
明治2年(1869)菊紋は公式に天皇家の御紋となった。


「羅王」

354 信長は「覇王」と称されたりもするが、稀勢の里が『北斗の拳』のラオウ(羅王)を化粧まわしにするとのこと。

稀勢の里(1986生)が生まれる前(’83「週刊少年ジャンプ」掲載開始)からのマンガの登場人物を国技でもある相撲の横綱が化粧まわしにするなんて、今の時代を象徴する出来事では。

何せラオウは、初めてちゃんとした寺(東京高輪・真言宗高野山東京別院)で葬儀委員長に谷村新司を招き葬儀が行われたのだから・・。(羅王は「修羅の王様」を意味すると)

 話は飛んで、バッタは「(飛)蝗」と表され、虫の王様として扱われている。(螇蚸とも表し、蝗はイナゴとも)
「皇(スメ)」は「統(ス)べる」の意で、「皇尊(スメラミコト)」とは天皇のこと。

その上、トノサマバッタは「殿様」まで冠している・・。
農作物に被害を与えることから、その昔は大発生すれば飢饉につながるので大問題だったのだ。「蝗害(こうがい)」との言葉もある。

この蝗害はウンカの被害にも用いられる。
ウンカは、ものの3~4ミリ程度の微小な昆虫ながら、東南アジアや中国から飛来し、農薬に対しても耐性のある変異体が生まれその駆除を困難にしていて、今も農家にとってはヤッカイな害虫である。 
(松山宗利著「昆虫はすごい」参照)

「とらえたる ばったこらえて くれといふ」(寺島ただし)

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