2017年06月

「Mr月光」

237 「七夕」の夜。年に一度の彦星と織女星の逢瀬に月光は無用だが、1966年6月29日来日したビートルズ公演を放映したTV番組は「ミスター・ムーンライト」で始まった。

その模様は、桑田佳祐の歌『月光の聖者達』がよく表している。
 「♪ 夜明けの首都高速走りゆく 車列は異様なムードで 月光(つきあかり)の聖者達(おとこたち)の歌が ドラマを盛り上げる・・・」

file  「ミスター・ムーンライト」は、日本盤『ビートルズ'65』(1965.3.15発売)のA面6曲目に収録されていた。

作詞作曲はロイ・リー・ションソンで、1962年R&B歌手のピアノ・レッドが”ドクター・フィールグッド&ジ・インターンズ”の名義で発売していた。
このアルバムは、本国イギリスでクリスマス・シーズン前に合わせて発売するとして、オリジナルは8曲のみだったことからあまり高い評価は得ていない。

公演でも最初に歌われた「ロック・アンド・ロール・ミュージック」が1曲目で、シングルとして先行発売(2/5)されていた。

 ビートルズは6月29日の明け方、午前3時50分に羽田空港に到着した。
前日28日には大型台風4号が首都圏を直撃して、死者5名・行方不明者12名、家屋の浸水10万戸を出す非常事態で、アンカレッジで足止めをくらい10時間遅れでやって来たのだった。

公演時間はわずか11曲・35分、悲鳴に似た絶叫が館内に響き、「一万人の観客は音楽を聴くのではなく、四人を見るためにきた」、「歌もろくすっぽ聞こえない」(三島由紀夫)と言われたが、それでも当のビートルズ側は「すごくおとなしかった」(リンゴ)と。
 (恩蔵 茂著「ビートルズ日本盤よ、永遠に」参照)





「七夕」

237 上桜城で篠原長房・長重親子が討死したのは7月16日のこと。

城攻めがはじまったのはその年(1573)の5月のことで、嫡男・長重はまだ18~20才で、妻と次男以下4人の子息は落城のさい紀州に逃れたという。

そんな状況下では、とても「七夕」気分どころではなかったろう・・・。

 中国から伝わった七夕伝説が貴族社会に浸透していくのは、奈良時代より少し前のことだと。
『万葉集』(巻十)に、「天の河 揖(かじ)の音聞ゆ彦星と 織(たなばた)つ女と今夕(こよい)逢ふらしも」とある。

中国・六朝時代七夕の中心行事である「乞巧奠(きこうでん)」という星祭りが、日本古来の「棚機津女(たなばたなつめ)(毎年一人選ばれた女が機屋で衣を織り、訪れた夫神が村に豊穣をもたらし、穢れを持ち去ってくれる)の信仰と重なった。

室町時代のころから娯楽的要素が加わり、江戸時代に入って寺子屋の広まると裁縫や手習いの上達を星に祈ったものが、短冊に願い事を書いて竹に結ぶ風習として広まった。

 「乞巧」とは上達を願うこと、「奠」は祀ることで、梶の葉に七日の朝、芋の露を集めて磨った墨で書くものとされ、前夜には「硯洗(すずりあらい)」といって硯や机をきれいにするならわしがあり、北野天満宮では硯に梶の葉を添えて供する「御手洗祭」という神事が行われる。

「七夕」は中国でももともと夏の行事ではなく、古来秋の行事とされ「七夕」は秋の季語である。
なお、梶は紙の原料となる楮(こうぞ)で、古くは「かぞ」と呼ばれていたのが「かじ」となった。天の川から連想して、舟の楫(かじ:舵)に言いかけて歌に詠まれる。 
(「新日本 大歳時記」講談社、「別冊太陽 日本を楽しむ 暮らしの歳時記 夏」平凡社参照)

「七夕や 秋を定(さだむ)る 夜の初(はじめ)(芭蕉)

長治は信長との和睦を望んだ?

Uesakura 「法華騒動」が後世の軍記物により誇大化された出来事なら、阿波三好家当主・三好長治が譜代の宿老・篠原長房親子を滅ぼした「上桜城の戦い」(1573.5)も、大形殿(小少将)と弟・自遁(実長)の仲を諫めたことが原因とされる『昔阿波者語』・『三好記』 のくだりも同様。

天野忠幸氏は『三好一族と織田信長』で、相次ぐ畿内出兵で阿波三好家は疲弊し、長治は信長との和睦を探っていたと。

 元亀元年('70)末には、信長の養女(久秀の娘)を長治に嫁がせるという和睦案があり、篠原長房から(信長に降っていた松永久秀に)人質を出して信長と和睦して長治・長房らは阿波に帰国し、毛利氏の孤立化を図るため備前・本太城を攻めた。('71.5) 一方の信長は「延暦寺の焼き討ち」('71.9)を行っている。

元亀3年('72)10月、いよいよ武田信玄が甲府を出発し、「三方が原」で家康を破って西上を始め、
これで「信長包囲網」が成り将軍・足利義昭も挙兵した直後の4月、堺の十河存保は和泉・松浦肥前守を介して信長に、長治が三好義継の若江城を攻める代わりに義継の支配地河内半国と摂津欠郡を要求したと。

その真意を証明するかのように5月に、長治・存保は真之を担いで上桜城を攻め、7月16日長房・長重父子を自害に追い込んだ。

長房の妻は本願寺の一家衆・教行寺兼詮の妻で、長房は本願寺の最大の支援者だった。 その後ろ盾を失った畿内の反信長陣営の目算は大きく狂ってしまう・・。

 この後信長は、7月に将軍・足利義昭を追放し、8月には最後の”三人衆”岩成友通を淀古城で討ち取り、11月には将軍・義昭を囲ったとして三好義継も自害に追い込んでいる。(この間、朝倉・浅井氏も滅ぼされている)
 
信長が阿波三好家を赦す訳もなく、12月に信長は毛利氏に「長治を許容しない」と伝えていると。

安宅神五郎

kasyuuhatiman 三好長治の弟に安宅神五郎がいた。

三好長慶の養子となった義継は四弟・十河一存の子で、十河家は長治の次弟・存保が継ぎ、安宅家を継いでいた神太郎は信長軍に加わり「木津川の合戦」(1572)で30歳の若さで死亡したので、長治の三弟・神五郎が安宅家を継いだ。


安宅氏は、津名郡由良(洲本市)を本拠に榑や材木の中継地となっていた。
長慶の曽祖父・之長は永正14年(1517)淡路に侵攻し、同16年('19)には守護・細川尚春を滅ぼしている。
その後、大永8年('28)安宅次郎三郎の謀反を契機に長慶の三弟・冬康が安宅家に養子として入っていた。

 天正4年('76)5月、神五郎は信長に服属した。
前年10月、兄・長治が「法華騒動」を起こしたことが直接の原因ではないにしても、畿内で三好宗家の瓦解し、同年4月信長に降った三好康長の調略によってか取次となっている。(8月長宗我部元親が海部・三好に侵入)

そして、長治の異母兄弟である細川真之も勝瑞から出奔。(阿波の情報収集にあたっていた小早川隆景が10月15日家臣に伝えている。)

しかし、長治が別宮長原で自害してしまい次兄・十河存保も堺にいたことから、神五郎は小早川隆景の働きかけにより菅元重・船越景直らとともに信長と断交した毛利輝元に通じたようだ。(天正6年('78)1月存保は勝瑞城に入る)

 天正9年('81)11月、(羽柴)秀吉らが淡路に進攻し毛利水軍の拠点となっていた岩屋を攻撃し、洲本まで攻め込まれて神五郎は再び信長側に服した。
これまで信長と長曾我部元親の関係は良好であったが、ここで信長は阿波・讃岐の支配を三好康長に命じた。

「本能寺の変」('82.6.2)により事態は一変し、天正12年('84)阿波・四国は長宗我部元親により平定される。
この年7月、神五郎は秀吉により淡路から播磨国明石郡押部谷(神戸市西区)2,500石に転封され、淡路は仙谷秀久に与えられ、洲本には脇坂安治が配された。
 (天野忠幸著「三好一族と織田信長」参照)


「法華騒動」の真相

勝瑞舘 天正3年(1575)、阿波三好家当主・三好長治は阿波国中へ日蓮宗への改宗を強いるため居城・勝瑞城で真言宗との宗論(「法華騒動」)があったとされるが、その真相は流布されているようなものではなく「物語化」されていると。

『三好記』(福長玄清(医師):1663年徳島藩家老の要請によって版本として発刊)では、長治の命により日蓮宗側は妙国寺(日珖)・経王寺の僧が本行寺に、真言宗側は高野山・根来寺の僧が持明院に集まったが、篠原自遁の仲裁で旧来どおりとなったと。

『昔阿波物語』(二鬼嶋道智(十河存保に仕え、後に蜂須賀氏に登用された):成立年16世紀末~17世紀前半)では、堺から日蓮宗の僧侶が大挙して阿波に入り改宗を進めたので、禅宗・真言宗寺は迷惑がり、真言宗山伏三千人が持明院に集まり訴訟に及び、根来寺からゑんしよう(円正)が招かれて宗論となった。篠原自遁の仲裁で、当座は真言宗の勝ちだが、「日蓮宗をやめると有事なく諸宗皆迷惑に及ひ候」と曖昧。

また、『みよしき』(作者不詳、成立年『昔阿波物語』と同時期?)は『昔阿波物語』とほぼ同様であり、『三好別記』(作者・成立年とも不詳)も『昔阿波物語』・『みよしき』と類似している。

 これらがどこまで事実であったか定かでなく、諸宗派にさほど影響をもたらしたものでなく一過性のトラブルで、日蓮宗も併存することになったと解釈でき、「真言宗側の有利に解決された」とは読めず、「騒動」ほどのものではなかった。

しかし、これを「騒動」としているのは、長治の無軌道ぶり、人物像にウエイトを置き「失政」を表現したものだと。
当代の支配者(蜂須賀氏)の正統性と前代の支配者(三好氏)の否定を意識し、他にも長治を三好氏滅亡の因となったことを挙げ連ねている。

これは、徳島藩家老からの要請で書かれたことや、かっては三好氏に係わる前歴がありながら登用された蜂須賀氏に近い立場から、三好氏を否定的に評価した「物語」であり、
これら「軍記物」の記述は、物語としての長治像の枠内で理解すべで、騒動に関する「事実」だけを読み取ろうとするのは妥当でないと。
 (天野忠幸編「阿波三好氏~天正の法華騒動と軍記の視線:長谷川賢二」参照) ※別記事「実休と妙国寺」('13.7.5)
 
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