2017年10月

偏西風と北風

025 2週連続の台風。 今回は強い偏西風のお陰で太平洋側にそれ、直撃は免れた。

偏西風」は、地球のコリオリ力で中緯度付近に起きる強い西風。

偏西風帯の上空8~13キロメートルで吹く風が”ジェット気流”。

台風も赤道近くで暖められた空気が強い上昇気流を生んで積乱雲となり、この積乱雲が集まり雲の集合体となったものがコリオリ力
(転向力)によって反時計回りの渦を巻き、台風へと成長する。

世界の平均温度は100年あたり約0.68度上昇を続けており、海水面は100年で10~20センチも上昇。
日本においても時間雨量が100ミリ以上の豪雨の発生が増えている。

 ジェット気流は冬場に強く吹くらしいが、冬の風と云えば「北風」。
先日の総選挙で某氏が「北朝鮮のお陰で勝った」といい物議をもたらしたが、韓国の政界では北朝鮮がらみではよく使われる言葉だと。

イソップ寓話の「北風と太陽」は、子どもの頃誰もが話してくれたことだろう。
これをモジるなら、さしずめ北の脅威=北風で、アメリカの核の傘=太陽か。

今朝の新聞では、国連で唯一の被爆国日本の核兵器廃絶決議案に賛成する国が23か国も減ったと。
今夏の核兵器禁止条約には反対との立場が、世界に受け入れられていない結果だと。

陰謀

245 ケネディ大統領暗殺事件が解明されるか、と注目された秘密文書の公開が見送られた。

初めての衛星中継で報じられた世界のビッグニュースは、犯人のL・H・オズワルドが2日後に警察署でジャック・ルビーという男に銃殺されるという驚きの展開に、いろいろ陰謀説が取り沙汰された。

 陰謀説と云えば、日本の歴史上もっとも謎とされているのが「本能寺の変」。
怨恨・不安説から四国政策転換説、朝廷黒幕説の他にも秀吉・家康説、本願寺・イエズス会説等々枚挙に暇がないほど。

かねてから「足利義昭説」を唱えている三重大学教授・藤田達生氏は、事件発生10日後の6月12日に光秀が紀伊雑賀の土豪・土橋重治宛書状の原本が見つかったとして、義昭推戴説をあらためて強調している。

この中で、「今後の詳細は将軍義昭様から指示がある」とあり、当時京都を追放されて鞆の浦にいた義昭と交信することは至難の業で、変の以前に義昭から働きかけがあったのだろうと。

 三好氏の中では、長慶の父・元長が享録5年(天文元年 1532)6月20日、ともに「堺大樹」をうち立てた阿波細川家の細川晴元と対立し、晴元は本願寺・証如に援軍を要請し20万
(「言継卿記」)の一揆勢に囲まれて元長は顕本寺(堺市)で自害した。

これは同族・三好政長
(細川晴元の側近衆で、元長とは仲が悪かった)の陰謀たと知った、阿波に逃れた千熊丸=後の長慶は天文18年('49)「江口の戦い」で政長を討った。

将軍になりたかった男

12 永禄9年(1566)6月11日、篠原長房は2万5千もの大軍を引き連れ、阿波公方・足利義栄を擁して兵庫浦に上陸した。

三好義継が将軍になりたかったかどうかはともかく、足利義栄を将軍の座に据えようと考えたのは、阿波三好家や長房ひとりの考えではなく
(三好長治はこの時、まだ13才)、三好本宗家で三好義継(同17才)を補佐する”三人衆”三好長逸らと協議の上でのことだと思う。

足利義栄(
よしひで 1538-68)は、第11代将軍・足利義澄の子・義維(よしつな 1509-73)の子で、12代将軍・足利義晴の兄弟。

 永正5年(1508)、前将軍・足利義稙(
よしたね )が大内義興・細川高国らに奉じられて入京し、義澄を追放して再び将軍職に復位した後、同18年(大永元年 1521)高国と対立し出奔したので、高国は敵対する阿波・細川澄元の下で育てられていた義維ではなく、播磨の赤松氏の下で育てられていた弟・義晴を将軍に据えた。

義維は、兄であるにもかかわらず弟が将軍となったので、将軍就任への執念は強かったようだ。
阿波の細川晴元
(澄元の子)と三好元長は義維を擁立して高国を破り、義晴を追放して堺に「堺公方」を樹立、義維は「左馬頭」(将軍後継者が任官する官職)となり実質的に京都を支配するようになったが、入京することはなかった。

しかし、朝廷は義晴を実質的な将軍と認識していたようで、義晴には「権大納言」に昇進させて帰洛を促し、「大永」から「享録」への改元の際も義維には何も連絡がなかった。
また、各地の大名も義晴を名実ともに将軍として対応していたと。

天文元年(1532)細川晴元と三好元長も対立して、元長は晴元に加担した本願寺勢に攻められて自害。 
義維は阿波に逃げ帰り、阿波細川氏の庇護のもとに平島庄に住むようになり「平島公方」と称されるようになった。
(榎原雅治・清水克行共編「室町幕府 将軍列伝~足利義維:木下昌規」参照)

 





義継は将軍になりたかった?

Yoshitugu ワールド・シリーズがドジャース先勝で始まった。

スポーツは何でも1位と2位では天と地ほどの差があると言われる。

 三好長慶(1522-64)は一度追放した将軍・足利義輝を和睦して京に招き入れ、自らが長となることを望まなかった。

これに対して、三好義継(1549-73)は、長慶の後を継ぐや義輝を殺害し、自らが将軍になることを望んだと
。(榎原雅治・清水克行共編「室町幕府 将軍列伝~足利義栄:天野忠幸p379」)

 永禄6年(1563)8月25日長慶の嫡男・義興が死亡し、義継は翌7年('64)1月22日に渡海。(当時15才。孫六郎重存を名乗っていた)

5月9日、長慶が安宅冬康を飯盛山城で殺害し、自らも7月4日に病死した。

明けて永禄8年('65)4月30日、義継は飯盛山城より上洛し、5月19日には三好長逸・松永久通とともに将軍・足利義輝を殺害している。

 讃岐・十河家を継いだ十河一存の嫡男であった若干15才の義継が、当主に指名されて上洛するやいなや将軍を殺害するという大胆な行動に打って出るのは、長慶とは四半世紀の年の差はあれど義継ひとりの思い付きではないと思う。

それは、将軍殺害後に三好三人衆と松永久秀とが対立して三好本宗家が分裂した翌9年('66)6月、阿波から篠原長房が阿波公方・足利義栄を擁して渡海し、新将軍への推戴を目論んだことなどに反発して、同10年('67)2月17日三人衆の元を離れて久秀の元に駆け込んでいることからも、義継が新将軍候補でもなく本人にもその意思はなかったと云えるのでは。

4R

Booth_deringer 大リーグのワールドシリーズはドジャースとアストロズの対戦と決まった。

ヤンキースは惜しくも敗れて、残念ながら田中とダルビッシュの投げ合いは見られなくなった。

 ダルビッシュのいるドジャースは、カーショーを擁しているが、アストロズもタイガースからバーランダーを補強して万全の体制。
打線はターナー、シーガー、ターナー、ベリンジャーの上位4Rが好調で、スプリンガー、アルトゥーベ、コレアの強力アストロズ打線との対決も楽しみ・・。

新人ながら39本のホームランを打って、マーリンズのスタントンの59本には及ばなかったが、新人記録をつくったベリンジャーの打撃も注目。
全身バネのような今年、流行りの”フライ・ボール”スウィングが、果たしてバーランダーやカイクル相手にどんな成績を残すだろうか・・。

 ところで、ベリンジャーと云えば、すぐ第16代アメリカ大統領・リンカーン(1809-65)を狙撃した「デリンジャー」を思い出す。

ジョン・ウィルクス・ブースという俳優が、出勤中の大統領を1.2mの至近距離からポケットに忍ばせたデリンジャーで、リンカーンの後頭部を打ち抜いた。


 リンカーンといえば、誰でもが知る著名人。
彼の残した言葉の中に、昨日の選挙に敗れた某人に聞かせたい言葉がある。

「たいていの人は災難を乗り越えられる。 本当に人を試したかったら、権力を与えてみることだ」



記事検索
プロフィール

fumi

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ