2017年11月

「悪の華」

mishima 1970年11月25日自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した三島由紀夫が、7月3日歌舞伎俳優養成所の第一期生を前に「悪の華」と題して講演をしている。

凡人の身には理解しがたい内容なのだが、前記事「悪・・」の続編としてその一部を・・。

講演の後半、三島は「歌舞伎は、それ自体が悪である。」、「人間の悪の固まりみたいなものが、美しい華を咲かせたのが歌舞伎で」、「歌舞伎からそういうものを全部追放して、道徳的に美しいもの、清潔なも・・・、としたいのなら、その瞬間に歌舞伎ではなくなってしまう。」

 「歌舞伎には道徳を超越した不思議な魅惑がある。」、「反社会性が歌舞伎と結びついた。美の魅惑は、どんな道徳的観念で律しても律しきれない不思議なものを出して来た」
「しかし、一方では忠義のために死ぬ。忠義の味方をする。これが歌舞伎の不思議なところで、大衆というものはそういうものをなんです。」

「泥棒も好きだけど、忠義の武士も好きだというのが大衆。どんなに世間から否定されても一分の真実があるんだ、というところで人の心を魅惑する。そこで歌舞伎というものが成り立って来た。」
「悪を取ってしまって善ばかりを生かそうとすることはできないと」

「歌舞伎というものは、悪に繋がっている」、「綺麗にしたら何かが失くなる」、「悪というものを是認する、不合理を是認する。不合理を自分の中に取り込まなければ、歌舞伎という芝居を演じる意味がない。」

「一番不合理なものと、一番美しいものが結びついているのが、歌舞伎の不思議なんだ」
「一番悪いものと、一番良いものが結びついているものが、歌舞伎の不思議なんです。」と  
(「新潮 特集・三島由紀夫」昭和63年1月特大号 参照)

悪の不在

Katana 相撲界では暴行問題に揺れている。

日本の国技である大相撲を背負っているのはモンゴルの力士たちなので、文化の違いもあって相撲界も力士も戸惑っていることだろう。

 力士と云えばチョンマゲ、サムライの名残りを今に残している。
そしてサムライと云えば、映画やテレビから時代劇が少なくなって久しい。

「なぜ時代劇はなぜ滅びるのか」
(春日太一著)の中で、著者はその原因のひとつに「悪の不在」を挙げている。
時代劇は現在とは違う世界を描くファンタジーであり、憎々しいまでに非道で残酷、理不尽さの象徴である悪役に立ち向かう主人公の悲壮感が緊迫感を生んで、ドラマに爽快感が生まれるのだと。

 そう言えば「天下の三梟雄」とされた松永久秀は、そんな「悪役」にされて世に喧伝されたひとりなのだろう。

また、久秀を語るとき「好色で吝嗇
(りんしょく:けちんぼ)」とも云われる。
戦場に向かうときも側女を二、三人連れていて、幔幕のなかで痴戯にふけっていたなどというが、久秀の嫡子は久通ひとりであることから、これも悪役に仕立てるための作り話だろうと。

吝嗇と云われたのは、信貴山城や多聞山城を築城したとき、領民から納められた串柿の竹串を城壁の芯に使ったとか、酒樽のバラして板塀に使ったからなどというが、見方を変えれば合理的でもある。

実際は「城内の壁は古い歴史の描写で飾られており、それ以外は金地でできている。柱頭と柱礎は真鍮でできていて金を塗ってあった」
(宣教師アルメイダ)と絢爛豪華で、吝嗇との評価は当たらないと。(藤尾か周三「松永久秀の真実」参照)

藤原北家の終焉

04 藤原北家による摂関政治は第63代冷泉天皇(在位967-69)から第70代後冷泉天皇(在位1045-68)まで8代、約一世紀続いた。

第68代後一条天皇(
在位1016-36)のとき、藤原道長(966-1028)は3人の娘を后位に就かせて我が世の春を詠った。

「この世をば 我世とぞ思ふ望月の かけたる事も なしと思へば」

 しかし、関白・藤原頼通(道長の嫡男)は後冷泉天皇(頼通の娘・寛子が皇后)の皇子誕生を待ち望んだが、その願いも叶わず崩御し、長い東宮生活の末に後三条天皇が即位(在位1068-72)した。
実に170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇だった。

後三条天皇は、源経長や大江匡房ら反藤原氏を登用し、藤原摂関家や寺社に抑えられていた荘園にメスを入れる「延久の荘園整理令」を発布して財政の再建を図り、摂関政治との結びつきを絶ち、在位4年半で白河天皇
に皇位を譲った。

 やがて摂政関白は名目上となり、白河天皇在位1072-86)「治天の君」として「院政」という新しい政治形態を生み出した。
「鴨茂川の水、双六のサイ、山法師」は自分の思い通りにならないと嘆いたが、新しく創設した「北面の武士」は後に平家が台頭するきっかけとなった・・。 (高森明勅著「歴代天皇事典」参照)

「応天門の変」

img_0 大伴氏は、忌部氏の祖・天太玉命とともにニニギの天孫降臨に随伴した天忍日命を祖とし軍事を担っていた。

前記事「橘奈良麻呂の変」(757)で反藤原氏はほぼ全滅していたが、大伴家持は自重して助かっていた。
(家持はその後東北に赴任させられ任地で死亡)

そして、大伴氏が息の根を止められたのが「
応天門の変」。

 貞観8年(866)、応天門が放火された。
応天門は大伴氏(伴氏)が造営したもので、大納言・伴善男は対立していた左大臣・源信の犯行であると告発したが、太政大臣・藤原良房の進言により無罪となった。

その後、今度は伴善男父子に嫌疑が掛けられ、伴善男は伊豆へ、子・中庸は隠岐、秋実は壱岐、清縄は佐渡へ、親族も流罪となった。
訴えたのは善男の従僕に娘を殺された大宅鷹取という官吏で、親子を恨んでいたと。

紀豊城も安房へ配流され、
大伴氏・紀氏を排斥して太政大臣・藤原良房は摂政となり、跡継ぎの基経を中納言とし、姪・高子を入内させて藤原北家の地位を盤石なものにした。

 この時の天皇は、天安2年(858)わずか9歳で即位した清和天皇で、実権は良房が握っていた。
天皇は多くの妻を持ち、その子孫は臣下して清和源氏となり、第六皇子の貞純親王の子・源経基の子孫から源頼朝や足利尊氏などが生まれる。

 

神無月

62 神無月は本来は旧暦十月だったが、現在では新暦10月を云うようになっている。

「十月(かむなづき) 時雨に逢へる黄葉(もみじば)の 吹かば散りなむ 風のまにまに」(『万葉集』巻八秋雑歌 大伴宿禰池主)

”かむなづき”の「な」は「の」に同じで、神の月のこと。
一年の収穫を神々に感謝して献げ祭る月の意味であったが、「かむ」が「かみ」に音韻変化して、「神の無い月」との解釈が生まれ「神無月」の字が当てられるようになった。

この解釈は農業生産に関わりのない
平安中期に貴族の中から生まれ、「神無月」・出雲だけは「神在月」との習慣ができたと。(高橋睦郎著「歳時記百話」)

 大伴池主(?-757)は、『万葉集』に29首も掲載され、その才能は大伴家持を上回っていたとの説もある人物だった。

この歌は天平10年(738)、左大臣橘諸兄の旧宅で行われた橘奈良麻呂主催の宴に大伴家持らと参加したときに詠んだもので、池主は「橘奈良麻呂の乱」に連座して獄死した。


「橘奈良麻呂の乱」とは、左大臣橘諸兄を父に持つ奈良麻呂であったが、同21年(749)孝謙天皇が即位すると藤原仲麻呂が寵愛されて台頭したのに危機感を持ち、天平勝宝7年(755)仲麻呂や天皇を廃する画策した謀叛の罪で捕らえられ奈良麻呂は拷問死した。
この事件では
443人もが連座して処罰されたと。
(ちなみに、藤原仲麻呂は「恵美押勝」の名を与えられ太政大臣にまで登りつめたが、764年に乱を起こして滅びた。)

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