2017年12月

足利義昭の家臣が阿波に!?

DSCN0799 第15代将軍・足利義昭といえば、元将軍である兄・義輝を討たれた三好氏は仇。
その義昭に仕えた家臣が阿波に落ち延びたという伝承がある。

吉野川市美郷の旧中枝・柿谷にかっては九戸あったという鎌倉家の先祖は、平安時代に源義家に従って奥州で戦功を挙げた鎌倉権五郎景政だと。

戦国時代となり、その子孫は足利義昭に仕えていたのだが、阿波に来て川島城主の客分になり、長宗我部に敗れてここに引きこもったという。

「柿谷」という地名は、先祖が奈良から持って来たという御所柿を領主だった稲田氏に献上し、そのお礼に与えらたのだと。(喜多弘・湯浅安夫共編「麻植の伝説~柿谷の鎌倉市」より)

 川島城主は川島兵衛之進で、元亀4年(1573)7月16日の「上桜の合戦」に戦功があり、領地を与えられ築城したとされる。(7/28に天正に改元。 川島氏は三好氏の一族とされ、兵衛之進(惟忠:これただ)は天正7年('79)「脇城外の戦い」で討たれ、子孫は備中に逃れたと。) 

その7月19日、義昭は挙兵して信長に京都・槙島城を追われ、娘婿である三好義継の守る若江城に入ったが、11月5日には堺に移った。
若江城は佐久間信盛軍に攻められ同16日に落城、義継は妻子を刺殺したあと自害している。
義昭は下旬には由良に移っている
。(天正4年('76)2月備後鞆に移った)
 (写真は、ふもとの県道沿いにある暮石八幡神社)



武術から武道へ

132 流罪となった沢庵和尚の赦しと、将軍・徳川家光との会見に労を尽くしたのが柳生宗矩である。

『耳嚢』に、柳生但馬守の門前に托鉢僧が来て、剣術稽古の音を聞いて「大概には聞きけれど、御師範などは事おかし」というので道場で立ち合うことになった。
宗矩は、「出家なれば何をか持つべき」と何も持たず稽古場の真ん中に立つ僧に、「不埒なこと申すものかな」と打ちかかろうとしたが、「打ちかからばいかようにか手ごめになる程に思われ」、木刀を下に置き「御身は智識道徳の人なり。心法の修行を教え給え」と請うたと。

 これが柳生宗矩と沢庵の最初の出会いとされ、宗矩は沢庵から『不動智神妙録』を与えられて禅の指導を受けた。
剣の道を思想的にどう裏付けるか苦慮していた宗矩は、兵法にたとえをとりながら禅の世界の教えを受け、剣の道を極めたと。
禅が武士道と結びつき、儒教と並んで武士の思想的バックボーンとなるのである・・。

江戸時代には、兵法は人を殺すものではなくなり武術は武道へと変貌し、その「道」となるために禅が有用だった。

 将軍・家光の寵愛を受けていた宗矩は、
熱心に沢庵の恩赦を働きかけ、赦された沢庵を家光に会わせた。
家光はひと目で気に入り、品川に東海寺を建ててまで沢庵を江戸に引き留めようとしたのである。
 (「仏教を歩く 沢庵」朝日新聞出版 参照)

ウハウハのウハ

護衛艦いずも ミサイル発射を止めない北朝鮮の脅威に加え、トランプ大統領の要請を受けて、このところ一気に軍備増強を加速している。

陸上イージス艦版である”イージス・アショア”の2基導入や、長距離巡航ミサイル、”ヘリ空母”「いずも」を改修してF35Bを搭載するとまで・・。

 「いずも」は全長248mで第二次大戦中の艦隊空母に匹敵し、全通甲板に5か所の発着スポットが設置され、最大14機のヘリを搭載できる。
すでに、「ひゅうが」型鑑
(全長197m)でMV-22オスプレイの発着・格納訓練が実証済み。
F35B
 F35Bは、既に42機の購入を決めているF35Aが通常離着陸機
(CTOL)であるのに対し、STOVL(短距離離陸・垂直着陸)機で、リフトファン・エンジンなどを搭載するため、航続距離は75%、兵器搭載量は83%余りになる。

その費用は、F35Aでさえ1機150億円にも達するといわれ、F15J
(100機)の後継機としての購入も検討されているようなので、ますます軍事費は膨張すること間違いなしだ・・。
国会は安倍一党体制が揺るがず、まさに「ウハウハ」状態の右派だ。

「紫衣事件」

1102 三好長慶が創建した南宗寺は、沢庵和尚によって再興された。

沢庵宗彭
(そうほう 1573-1645は、出身地・出石に来た大徳寺・薫甫宗仲(とうほそうちゅう)の帰洛にともない、文禄3年(1594)大徳寺の塔頭三玄院に入り宗彭と改名。

薫甫が亡くなると堺に出て一凍紹滴
(いっとうじょうてき)の弟子となり、慶長9年(1604)印可(得法の証明)と沢庵の号を受けた。32才のことだった。

同12年('07)に南宗寺に住み、同14年('09)には大徳寺の住持となるが、「大刹の住持は堪えられない。白鷗は都の雑踏を飛ぶことはない。」と3日で去り、南宗寺に帰ったと。

 沢庵といえば「紫衣事件」。
時の将軍は徳川秀忠で、幕府は五山を保護し、それ以外の林下の大徳寺や妙心寺の出世を禁止するなどの圧力を強めていたところ、寛永4年('27)沢庵はこれを無視して弟子を推挙し出世させた。

朝廷が高徳の僧に”紫衣”を与える権限を有していたのに対し、
幕府が新しい法度により制限しようとしたことに抗弁書を出した沢庵は、江戸に召喚されて詮議を受けて同6年('29)出羽上山(山形県)に流罪となった。(水尾天皇が譲位したのはこのことが原因のひとつとされる。)

 2年後の同9年('32)秀忠が没して、大赦により流罪は解かれ大徳寺への帰山が許されると、今度は二条城で家光と会見して気に入られて江戸に招かれ、家光は沢庵のために東海寺を建立している。

沢庵は「夢」の語を好んで歌や書に残しているが、東海寺にも沢庵の「遺偈(ゆいげ)」として「夢」の法語が残されている。
正保2年('45)、72才で亡くなった時も、「夢」の一字を辞世として書き残した。
 (「仏教を歩く 沢庵」朝日新聞出版 参照)

三好長慶の葬礼

Nanshuji 仁徳天皇陵のほど近くには三好長慶が創建した南宗寺がある。

南宗寺
(堺市堺区南旅籠町東)は、弘治3年(1557)三好長慶が父・元長の菩提を弔うため大林宗套を開山として創建し、三好氏の菩提寺となっている。

枯山水庭園は古田織部の手によるとされ、茶の湯を大成した武野紹鴎や千利休もここで修行したと。
慶長20年(1615)、「大坂夏の陣」で焼失したが、沢庵宗彭により現在の地に再興された。

 三好長慶の葬礼は、永禄9年(1566)6月24日に、三好義継や三好三人衆によって河内・真観寺
(八尾市)で行われ、その10日後に三回忌が義継によって南宗寺で行われた。
この時、今に伝わる笑嶺宗訴が賛を記した画像が書か掲げられた。

笑嶺宗訴は、大林宗套の法嗣であるとともに南禅寺の公帖を持つ靖叔徳林にも師事したことがあり、五山より上位である南禅寺派の真観寺で笑嶺宗訴が導師を務めたことで、将軍・足利義輝の葬儀には欠席した五山の長老たちも揃って参列し仏事を務めている。

京都五山は将軍家の篤い保護を受け、将軍の葬礼を管掌しており、林下の大徳寺と席を並べることはなかったが、義継は同席を拒否できない状況をつくり、大徳寺が五山を従える新たな形とする宗教秩序を作り出すとともに、長慶の継承者であることを示したのだと。 
(天野忠幸著「三好長慶」参照)
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