2018年02月

「俳句」と「俳諧」

 現在、「俳句」という名が一般化しているが、これは明治時代になって正岡子規が俳諧連歌から発句を独立させて、個人の文芸として確立してからのこと。

俳諧(誹諧)」は、滑稽な和歌として、『古今和歌集』巻十九「雑体」の部に「長歌」や「旋頭歌」とともに「俳諧歌」が含まれており、二条良基(1320-88)による『菟玖波(つくば)集』にも「俳諧」の部がもうけられていた。

 室町時代後期、山崎宗鑑(1465-1553)・荒木田守武(1473-1549)らによって俳諧が次第に独立するようになった。

宗鑑が俳諧連歌集『新撰筑波集』を、守武が俳諧集『俳諧独吟百韻』をまとめた。
『新撰犬菟玖波集』には、有名な「きりたくもあり きりたくもなし」という前句(下の句)に「盗人を 捕らえて見れば わが子なり」「さやか(清か・明か)なる 月を隠せる 花の枝」という、全く異なる付け句(上の句)を加えた句がある。

松永貞徳 江戸時代になって、松永貞徳(1571-1654)がまとまりのある文芸にまで高めた。
貞徳は、寛永二十年(1643)「新増筑波集」を刊行し、一派は「貞門」と呼ばれるようになった。

これら単純に移行したのではなく、それぞれの俳人が重層的に活躍していた。
芭蕉(1644-94)も、貞徳の弟子・北村季吟(1624-1705)や談林の西山宗因に学んでいた。

  ところで、”菟玖波・筑波”とは、日本武尊の東征の帰路に甲斐・酒折宮での「新治筑波を過ぎて幾夜か寝つる・・・」というやり取りをしたという故事を連歌の起源とされていることに由来する。
また、”犬”はその亜流としての意味で冠しているのだと。 (井上治著「歌・花・香と茶道」参照)

「花の下にて春死なん」

6saigyo 西行が死んだのは建久元年(1190)2月16日だが、現在の暦では3月31日のこと。

西行が讃岐から阿波に来て、岩津で詠んだとされる句がああると何度か紹介した。

「鼓山 うち出て見れば 西林 岩津といふは おしの住みかか」 

同様に、三好町足代にも歌が残っていると。(『三好郡誌』)
「あつしろや 雨はふれども よも濡れじ みのたの上に かさずかもあり」

 しかし、白洲正子氏は『西行』の中で、「『山家集』で見るかぎり、阿波へも土佐へも行った形跡はない」と、つれない。

讃岐西行庵その讃岐には、一年以上滞在した庵が残っている。

四国霊場第72番札所曼荼羅寺と73番札所出釈迦寺の中ほどを火上山に向かう中腹にあり、讃岐平野と瀬戸内海が一望できる。 
現在のものは平成元年に3度目の再建がされたものだと。

 西行が四国を訪れたのは、仁安二年(1167)50歳のときで、この地に庵を建てたのは、庵と讃岐の院(崇徳上皇)の旧蹟と白峰の御陵が東北に並ぶ位置にあり、院の怨霊を慰めようとしたのではと。


「ここをまた われ住む憂くて 浮かれなば 松はひとりに ならんとすらん」

「松」は崇徳院の象徴で、自分がここを去ってしまえば、院は独りになるだろうと悲しんでいる。


「花より団子」

254 「花よりも 団子やありて 帰る雁」(松永貞徳)

「花より団子」は、今でも結構使われている。
その出典は江戸時代後期に始まった『江戸いろはかるた』とされているが、冒頭の松永貞徳(1571-1654)の句が元となっているのではないだろうか。

貞徳は、秀吉の祐筆(書記)であったともいわれ、秀吉は”うぐいす餅”の名を命名したといい、団子など甘いものを楽しむ風習は秀吉の「醍醐の花見」から始まったとも云われ、何かと因縁がある。

 冒頭の「帰る雁」とは、「春霞 立つを見捨てて 行く雁は 花なき里に 住みやならへる」
(伊勢『古今和歌集』)~春になったというのに北に帰る雁は、花がない里に住み慣れているからだろうか、との歌を「団子が食べたいから帰るのだ」と滑稽に言い換えている。

しかし、このような古典の知識を持ち合わせていなければ楽しめない言葉遊び(「詞付
(ことばづけ)」)に対し、もう少し気軽に羽目を外して、言葉よりもよりも心を重視した(「心付(こころづけ)」)のが「談林派」の西山宗因(1605-82)だった。

だが、談林の最盛期はわずか十年ほどで、何でもありの無軌道ぶりが批判されて生まれたのが松尾芭蕉(1644-94)の「蕉風」だった。
(井上治著「歌・華・香と茶道」参照)


”うぐいす餅”

IMG_0041 少し春らしくなった。

と言っても、南国徳島ではのことで、北国ではまだまだ春を実感するどころではないことだろう。

写真は、この時季に掛けかえている結城素明(1875-1957)の『梅にウグイス』の掛け軸。
(ではなくスズメでした。)

「一つ落ちて 二つ落ちたる 椿哉」(子規)

 椿にはメジロですよね。(個人的好みですが)

春を代表するウグイスは、古くから人々に親しまれ、『万葉集』巻十巻雑歌「鳥を詠みき」十三首のうち八首がウグイスだと。

「梅(むめ)の花 見にこそ来つれ うぐいすの ひとくひとくと 厭(いと)ひしもをる」詠み人知らず)

『古今和歌集』第一巻春歌上にも、これでもかとばかりウグイスが登場する。
(当時はウグイスの鳴き声は「ヒトク ヒトク」と解されていた~うぐいすが人来・人来と嫌がっているとの意味)

 ところで、ウグイスと言えばあの若草色の”うぐいす餅”を思い浮かべる。
しかし、今日のそれはメジロの色で、いつの間にか茶色に近い暗めの黄緑のウグイスの色は、明るめのきれいな黄緑のメジロの色と誤解されて来たようだ。

p2”ウグイス餅”は、豊臣秀長が秀吉を大和郡山城に茶会に招く際に、御用菓子司・菊屋治兵衛に命じてつくらせたもので、これを秀吉がたいそう気に入り「以来、この餅を鶯餅と名付けよ」と命じたと。(うぐいす粉は、最初は黄な粉であったものが、後に青いままの青大豆を煎ってつくられるようになった。 菊屋ではいまも黄な粉を使用していると)


仁木伊賀守

 善勝寺を興したという細川真之の子・持方も、長宗我部元親の側室となった小少将が産んだ子も、「右近大夫」を称している。

細川氏は、京兆家で管領職を務めた政元らの官途は「右京大夫」を、阿波細川家は代々讃岐守・兵部少輔を、真之は讃岐守・掃部頭だった。

 ところで、真之の室は仁木伊賀守(?-1582)の娘。
伊賀守は、名東郡花房城主
(徳島市上八万町)・伊賀高将の兄・高長(初代阿波仁木氏)の養子となり中大野城主だった。

仁木高将は、天文22年(1553)、三好実休が細川持隆を殺害したことに対し、芝原城主・久米義広や野田内蔵助・佐野範房・小倉重信らが挙兵した「鑓場の合戦」('53.8.19「久米の乱」とも)に加わった。

伊賀守は、真之が長宗我部軍に討たれた後は、遺児・之照を平島公方に託し(『阿波誌』)、子を孕んでた奥方は叔父・仁木左衛門の元に逃れ、生まれたのが仁木八郎で畠山高政の養子になり良照と名乗った。(『細川家記』)

17良照は、父の仇を討つため長宗我部軍に加わり「中富川の合戦」('82)にも従軍したが、その後元親から離反し、伊賀守もこれに加わったことから長宗我部軍に攻められ、同年上大野城で討ち死にした。

 また、高将の子孫である仁木義治(1565-1653)は、蜂須賀家政に仕え、その後出家して仁鬼島道知斉を号し、『昔阿波物語』を書いている。
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