2018年04月

藍と木綿

201 江戸時代は水運の時代だとも云われる。

全国的に海運網が展開され、商品の流通量が増大するに伴い廻船(貨物船)の大型化が進んだ。

18世紀中期頃には千石船が普通となり、19世紀前半には千五百石、やがて二千石船が多用されるようになったと。

千石船は「弁才船」の俗称で、前記事「北前船」も弁才船。
海運従事者が「弁才(財・済)衆」と呼ばれていたことがその由来というが、定かでないようだ。

菱垣廻船
(舷側に菱組格子の装飾模様が特徴。)や樽廻船(酒樽などの樽物を扱うため船体が深く、菱垣模様はない)など大量の積荷輸送が可能な”大廻し”(長距離輸送)が一般的になり大坂・江戸に運ばれた。

ちなみに、大坂~江戸の所要日数は、航海技術の向上により17世紀後期には1ヶ月を要したものが、19世紀中期には半分以下に短縮されたと。


 阿波といえば
東京オリンピック・カラーに”ジャパン・ブルー
(藍色)”が使用されたことにより、藍が注目されている。
この藍が発達したのには、木綿の普及がその背景にある。

室町時代の天文年間(1531-54)に、大和・河内・山城・摂津などで綿の栽培が行われていた。
戦国時代、藍の臭いを嫌って蚊が近寄らないとして、鎧下や手甲・脚絆などを藍で染めることが広まっていたと。 

そして、時を経るごとに盛んになり、江戸時代になると備前・備中・備後で、やがて栽培に適さない東北を除く全国で栽培されるようになり、
その中で吉野川流域は全国最大の藍の産地となった。

 綿は製糸方法が簡単で、木綿は麻布よりも柔軟で保温と吸湿性にすぐれ、万能であたたかく、濃い藍色は汚れが目立たないうえに
「マムシが嫌う」として野良着に好まれ、肌着・下着にも庶民の衣料として広く用いられた。 このことから木綿の普及は「衣料革命」とも云われる。

「名月の 花かと見えて 綿畠」(芭蕉)

原料となる棉花の栽培を支えたのが干鰯(ほしか:鰯を乾燥させた魚肥)で、干鰯は棉花の栽培だけでなく藍作・稲作にも用いられた。

この木綿・藍の普及を支えた干鰯が、関東や西国から沿岸海運によって大量に大坂永代浜(現大阪市西区)に荷揚げされた。 (「1996現代農業 すべては江戸時代に花咲いた」農山漁村文化協会 参照)



「北前船」

030 飯盛山(いいもりやま)は全国に多くあり、「めしもりやま」と呼ばれる山もあると。

そこで、日本の食卓に欠かせない「だし」のことを。
「だし」のルーツは、縄文時代に野草や木の実を煮たことが原点だとされる。

 「だし」といえば「かつお」に「こんぶ」。
『古事記』(712)にはかつお節の原型といわれる「堅魚」
(かたうお)が記されており、『続日本紀』(797)には昆布が登場する。

室町時代、昆布は、蝦夷(北海道)から「北目船」で日本海を通り、琵琶湖の水運を利用して京都に運ばれた。
そして、北陸・関西・九州・沖縄と航路は伸びて、その地で独自の昆布文化が生まれた。
(関東地方は昆布ロードの到達が遅かったため、昆布の消費量は少なく主にかつお節が使われた。) (以上「だしの教科書」宝島社参照)

 春の連休が始まり、「西国巡礼」のお礼参りに善光寺に行く予定なのだが、宿泊先は石川県加賀市の民宿「北前船」だ。

江戸時代後期、加賀の海運業者で金沢藩の御用商人まで務めた銭屋五兵衛、通称「銭五」という商人がいた。

戦国時代の朝倉氏に末裔を称し、金沢に移住して宮腰(現在の金石)で海運業を始めた。
宮腰は北前船航路の重要な中継港で、五兵衛は最盛期には千石船を20艘、全所有船は200艘にも達し、全国に34もの支店を備えた豪商となった。
五兵衛は、朝鮮人参の密貿易でも大金を手にしたようで、「加賀の銭屋か銭屋の加賀か」といわれたと。



「破城令」

Yao_Jinja, 永禄7年(1564)7月4日、三好長慶は飯盛山城で死亡、これ以後三好政権は崩壊の一途をたどることになる。

同11年('68)9月織田信長が上洛し、三好三人衆が入っていた飯盛山城は、高屋城・信貴山城とともに落城した。

 天文8年('80)、信長は本願寺との10年に及ぶ「石山合戦」を終結させると、河内や大和で「城割」(破城令)を実施。

河内においては、池田教正により八尾城
(河内国若江郡、現八尾神社:八尾市本町。写真は址跡碑)が築城された。
池田教正は”若江三人衆”のひとりで、天正元年('73)三好長慶の後継者・義継が信長に追われた足利義昭
(妻が義昭の妹)を庇護したため攻められたとき、信長に通じて兵を城内に呼び込み落城させた張本人。

 八尾城は短期間で廃され、その後河内には近世にも城郭が建てられることはなかった。

三好長慶は、都市などの地域社会のネットワークを掌握しようとしたが、信長は地域社会が保持していた軍事力、すなわち軍事施設である城郭がを否定、解体して全く違う形で三好政権の志向を実現していったと・・。
 (「飯盛山城と三好長慶~城郭史における河内の城郭:中西裕樹」戎光祥出版 参照)

深野池

img_1770 三好長慶が畠山高政らを追って河内飯盛城に入城したのは永禄3年(1560)11月のこと。

飯盛(山)城は、現在の大東市と四条畷市にまたがる河内と大和の国境付近の飯盛山
(315m 大東市北条)にある巨大山城で、麓には京都と紀伊を結ぶ東高野街道、大和に抜ける清滝街道が通り、城の西側には当時が大坂湾に舟運で繋がる深野池(ふこの)が広がっていた。

PA281052「♪ 野崎参りは 屋形船でまいろ~」(東海林太郎)と歌われる『野崎参り』の慈眼寺(大東市野崎)は、大坂方面から船を利用する人は旧大和川を経て深野池を渡った城の麓にある。

『フロイス日本史』によれば、「おびただしい独木船、その他小船」があったとされ、飯盛城にとって事実上の内港で河川交通が盛んであった。 飯盛城が陸路・水路の便に優れていたことが長慶がこの城を拠点とした理由だったと。

 飯盛城には顕著な城下町は存在しない。
河内国や近畿地方には、すでに充分な商業や流通が発達し経済・文化の先進地域となりつつあり、新たに城下町を築造する必要もなかった。
中垣内・野崎・北条や東高野街道には岡山・砂が実質的に城下集落として機能していたと推定されると。

その他に深野池に面した
(池の中だったとも)三箇があり、舟運を担っていた三箇氏がいた。
三箇は城への舟運の発着点で、三箇氏は「河内キリシタン」であった。

 永禄3年、キリスト宣教師たちは将軍足利義輝と三好長慶の許可を得て畿内で布教を始めた。
京都では仏教諸宗派と争いが生じていたが、同7年('64)4月頃ヴィレラやロレンソを飯盛城に招待し長慶の家臣73名がキリシタンに改宗、飯盛城はヨーロッパにも知られるキリシタンの拠点となっていった。
(この年の7月4日長慶は病死)

この中に、三箇頼照サンチョがおり、三箇には教会が建てられた。
フロイスの『日本史』には、「大湖の中にある教会・・」「教会は水に囲まれた小島にあり、所有するのはサンチョと称する飯盛のキリシタンの領袖で、・・」とあり、アルメイダの書簡には「城下の大きな川に囲まれた島にある教会・・・、日本で見た中で最も信心深いキリシタン」とある。 この場所は、現在の菅原神社辺りとされる。

  同11年('68)、信長が上洛し、飯盛城は畠山昭高(高政の弟)に属し遊佐信教(長教の子、三好長慶の妻の兄)が入城した。
信長は同12年('69)、フロイスに布教許可の朱印状を下付し、天正3年('75)には畿内のキリシタンは500名に達していた。(同4年(76)飯盛城は廃城となった)

同9年('81)には三箇領内のキリシタンは1500人と記録されているが、翌10年('82)「山崎の合戦」にサンチョの息子三箇マンショは明智光秀に味方したため、秀吉の攻撃を受け教会は焼かれ、三箇城は落城。マンショは大和の筒井定次のもとに逃れた。

同15年('87)、秀吉は「バテレン追放令」を発布し、サンチョは行方不明、マンショは伊予に逃げた。 (「飯盛山城と三好長慶~河内キリシタンの動向と展開:村上始」戎光祥出版 参照)

「珉平焼」

01 桜間池を改修した第12代阿波藩主蜂須賀斉昌は、「珉平焼」の興隆にも尽力した。

珉平焼は、淡路三原郡伊賀野村
(現・兵庫県南あわじ市)において賀集珉平(1796-1871)が文政年間(1818-30)に始めた。

珉平は庄屋の長男に生まれたが、京都で陶工・尾形周平に出会い家業を弟に譲って作陶に専念するようになった。

天保5年(1834)には周平を招いて指導を受け、秘伝を伝授されるなどして仁清写・道八写などの名品をのこした。

同10年('39)、蜂須賀斉昌に徳島城に召し出されて御前で作陶を披露し、藩より「御用陶器師勝瑞珉平」の称号を与えら藩窯も経営するようになった。

 しかし、珉平が没し長男・力太が継いだのちは振わず衰退し、明治16年('83)淡陶社としてタイル生産を開始し、現在のダントー株式会社に受け継がれている。
 (須藤茂樹著「戦国文化への招待」他参照)


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