2018年05月

松永久秀の面子

Matsunaga_Danjou 久秀は元亀2年(1571)5月頃には反義昭・信長となっていたようであり、「辰市城の戦い」(8/4)には信長の援軍が派遣されていた。

5月6日には河内交野城を攻めている。
この交野城は、三好長慶と争った安見宗房の一族・安見右近が築いたもので、右近は久秀の配下にあった。

ところが、右近は多聞山城に呼び出された上に討たれてしまった。
そして、久秀・久通親子に交野城を攻撃されたもののなんとか持ちこたえている。
(翌3年('72)にも再び攻められたが、この時は信長方の柴田勝家・佐久間信盛らの応援があってこれを退けている)

そして同年('71)6月、久秀は三好三人衆と和解し、前記事の河内高屋城・畠山昭高を攻めた際(6/11)にはともに兵を進めている。

  こうして、三好三人衆(三好長逸)と松永久秀がともに三好家を支える体制となった。

前年('70)11月、娘を信長の養女としたうえで阿波三好家当主・長治に嫁がせるまでして、信長と三好氏との和睦を成立させたのに、半年余り後に義昭陣営から離脱したのは、よほど義昭が養女を宿敵筒井順慶に嫁がせたことが気に入らなかったのだろう・・。


翌3年('72)10月3日、いよいよ武田信玄が大軍を率いて甲府を出発し、反信長側の意気も上がったのだが・・。

「水無月」

56 5月も残すところあと一日。

陰暦六月の異名は「水無月」。
新暦では7月にあたり、炎暑のため水が涸れて無くなるというのが語源だと。

和菓子にも「水無月」と命名された菓子があり、これにも和三盆糖の精製過程でできる白下糖が用いられている。

 旧暦六月は夏の最後の月。
晦日30日には「夏越の祓」という神事が行われ、水無月の三角形は神事に使われる御幣の形からきていると。
また、古くは朝廷で冬の間にできた天然氷を氷室に貯蔵して置き、夏になると天皇に供御していたが、この氷をかたどったものだとも。
(旧暦六月一日は「氷室の節供」)

すでに室町時代に六月晦日の夏越しに蒸餅が食べられていた記録があるようで、明治以後この晦日と一日の行事を習合して作られたようだと。

  ところで、6月16日は”和菓子の日”とされているが、この由来には興味深い話が伝わっている。
元亀3年(1572)、徳川家康が武田信玄と戦った「三方ヶ原の戦い」で、八幡さまに戦勝祈願をしたとき、嘉定通宝を拾い幸先が良いことを喜んだ。(「嘉」と「通」で「勝つ」につながる)
そして、その嘉定銭の裏面には「十六」と鋳付けされていた。

もともと、室町時代から武家では6月16日には納涼のため楊弓を行い、負けた者が嘉定通宝16枚で勝者に食べ物を贈る行事が定着していたが、先の出来事から徳川将軍家では創業伝承として重要かつ大規模に行われたと。

 朝廷でもこの嘉定の日には「七嘉祥」として、天皇に七つの御菓子を調進されていた。 (七嘉祥は16の1と6を足した数だと)
 (青木直己著「和菓子の歴史」参照)

「辰市城の戦い」

Tutuijk 奈良と云えば、大和に入った松永久秀は筒井順慶との争いが繰り返された。

筒井順慶(1549-84)は2歳の時に父を失い、叔父・順政の後見により家督を継いでいた。

 永禄2年('59)から久秀が大和に侵攻し始め、同7年('64
:順慶15歳)にはその叔父が死亡し、協力関係を保っていた有力豪族・十市遠勝も久秀に降るなど厳しい情勢にあった。

 大和は、守護職が存在せず「大和四家」と呼ばれる筒井・越智・箸尾・土市氏に加え、興福寺が勢力を誇っていた。

同8年('65)、順慶は居城・筒井城を久秀に追われ、一族を頼って雄伏の時期を強いられた。

 元亀元年('70)7月、前年十市遠勝が病死して家臣が分裂したのを機に、順慶は十市城を攻め城を奪った。
(この時、久秀は信長の朝倉義景討伐に主力を差し向けていた。「金ヶ崎の戦い」「金ヶ崎の退き口」)

そして翌2年('71)7月3日、辰市城(奈良市東九条町)を築いた。('70年8月とも)
その地は久秀の多聞山城と信貴山城との間の要衝地であり、久秀はただちに兵を挙げた。

8月4日、信貴山城を出た久秀軍に三好義継軍が加わり、多聞山城からは息子・久通の援軍も合流し、1万余の兵で攻撃を開始した。 その時の声は「天智モ震動スルカト覚エタリ」(『和州諸将軍伝』)と記されている。

 ところで、この年の6月(5月とも)、久秀は将軍・足利義昭方の畠山昭高を攻撃し、反義昭を明らかにしている。
その背景には、義昭が九条家の娘を養女とし、筒井順慶に嫁がせていたことがあるようだ。

そんなこともあり、順慶方には十市、越智氏のほか次々と援軍が加わり、次第に久秀方は劣勢となり崩壊し始めた・・。


結局、甥の佐馬進、孫四郎のほか、河内・大和衆500余人が討ち死にするという、久秀としてはかってない大敗を喫している。 (天野忠幸編「松永久秀」、藤岡周三著「松永久秀の真実」ほか参照)

「青丹よし」

26 酒のアテにはならないだろうけど、奈良の名物に和三盆を使った「青丹(あおに)よし」がある。

奈良名物のクズ粉と短冊型に固めたもので、青(緑)と紅の2色ある。
享和年間(1801-04)に、有栖川親王が法隆寺に行啓のおり、米粉で砂糖を固めた「真砂糖」を納めたところ、「短冊型にして青丹よしと名付けよ」と云われたのが始まりだと。

「青丹よし」は奈良の枕詞。
「青丹」は①青緑色の「青土
(岩緑青:いわろくしょう)とも、②「青色と丹(あか)の色」とも云われる。 (山本候充編著「日本銘菓事典」参照)

「味酒(うまさけ)三輪の山 
あをによし 奈良の山の
山の際
(ま)に い隠るまで 
道の隈
(くま)い積(つも)るまでに
つばらにも 見つつ行かむを 
しばしばも 見放
(みさ)けむ山を
(こころ)なく 雲の 隠(かく)さふべしや」 
          (額田王『万葉集』巻一・十七)
                                   
 奈良県北東部の宇陀市は吉野葛の産地として知られる。
昔は飢饉に備えた非常食だったとも云われるが、日当たりのよい人里離れた山の斜面の深さ50cmほどのところに横たわっている葛根を粉砕し、井戸水で揉み沈殿させて上澄みを流すこと5~6回。 固めの豆腐くらいになると、石鹸ほどの大きさに小分けして3ヶ月間乾燥させる。

北前船と樽廻船

taru-kaisen-1 まだ5月だというのに真夏日を記録しそうな暑さ。

そろそろビールが飲みたくなる季節ということで、最近はビール類や焼酎に推され気味の酒の話題。

先の北前船は北海道昆布を日本海ルートで上方に運んだが、南の太平洋側を江戸に向かって”下り酒”を運んだのが「樽廻船」。
今でいう”ボージョレ・ヌ-ボー”のごとく江戸の庶民は待ちわびたと。

 徳川の世となり、大都市となりつつあった江戸に伊丹近郊・鴻池から馬で運んだ鴻池勝庵は、まもなく大坂・淀川河口・九条一帯が港として開かれたことから、馬から船へと転換して鴻池財閥として大成功した。

8代将軍・吉宗の治世に編成された船団が「樽廻船」という船足が早い新鋭船で、通常3日で江戸に着くようになった。 この推進役となったのが摂津・和泉十二郷の酒造家、特に灘の酒造家だった。

積出港は最初は大坂だったが、文化2年(1805)からは西宮港だけとなり、伊丹・池田酒が衰微して灘酒が勃興してきた。
江戸では、品川港で小船に移され、隅田川・新川堀に川筋をのぼって酒問屋に運ばれた。
新川一帯では白壁づくりの倉庫が軒をつらね、湊橋や霊山橋では江戸庶民たちがいまかいまかと待ち焦がれたと。

 ところで、中世までは瓶や壺で2,3年寝かせた紹興酒のような古酒であったが、奈良の僧坊酒で諸白化・寒造り・段掛け・火入れなどの技術革新により、現在のような淡泊な清酒がつくられるようになった。

また中世末期には、スギやヒノキをつかった樽・桶をつくる技術
(箍締(たがじめ)が発達したことで運搬輸送が容易となり、遠隔地取引が可能となって酒造業・醤油業などが発達した。

「下り酒」は、江戸前期・元禄10年(1697)には64万樽であったものが、文化文政年間(1804-29)には100万樽を超えたという。
 (「すべては江戸時代に花咲いた」農山漁村文化協会 参照)
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