2018年06月

細川氏綱の場合

細川氏綱の墓 三好長慶の嫡男・義興が病没(8/25)した永禄6年(1563)には、細川晴元(3/1)に加え、細川氏綱も亡くなっている。(12/20)

細川氏綱(1514生まれ)は、父
(典厩家当主・尹賢)と養父(高国)の仇である細川晴元を三好氏と結んで討ち、三好長慶とともに畿内を制覇した細川京兆家、最後の当主である。(晴元と同様に管領には任命されていない?)
その祖父・政賢の妻は阿波の細川義春(成之の次男。澄元・之持の父)の娘であり、阿波とも縁がある。

 氏綱は、父尹賢
(ただたか)が晴元の命により木沢長政に殺害('31.7)されてから11年後の天文11年('42)12月堺で兵を起こした。
これに対して、晴元は三好長慶に翌年('43)8月堺に出陣を命じている。

氏綱は五畿内にたびたび出兵したが、同14年('45)5月畠山植長
(氏綱の岳父)が死亡すると求心力を失い一時窮地に追い込まれるが、同15年('46)8月長慶が堺に赴いたときには遊佐長教・筒井順昭らとともに取り囲み越水城へ撤退させ、晴元を丹波に追いやるとともに、将軍足利義晴の支持を受けた。

 しかし、10月には長慶の弟実休が阿波から、淡路からは冬康の援軍として軍船500船、兵2万が続々と集結、同16年('47)7月21日「応仁の乱」以来の畿内最大の戦いと云われる「舎利寺の戦い」
(大阪市生野区)で大敗した。

 三好長慶は六角定頼の仲介により遊佐長教と和談し、その娘を娶り('48.5)名前を範長から「長慶」と改めたのはこの頃のこと。

その長教から父・元長の死は同族の三好政長の暗躍があったことを知らされ、17年('48)8月弟・十河一存に政長の榎並城を攻めさせている。

そして、政長父子の誅抜を進言するも受け入れられなかったことから、氏綱と手を結び晴元に対抗することを決し、同18年('49)6月「江口の戦い」で政長を討ち取り、7月9日氏綱とともに入洛した。
同21年('52)、氏綱は右京大夫に任じられ、京兆家の家督を継いだ。

頼りは六角氏

 大名たちが在京しなくなり、独自の軍を持たなかった足利将軍にとって、頼りは六角氏だった。

近江国守護家である六角氏は、阿波と無関係ではない。
鎌倉時代、佐々木四兄弟のうち佐々木経高が阿波守護となり、長兄・定綱が六角氏の祖となている。
(京都の六角堂に屋敷を構えたのがその由来だと)

Rokkaku_Shōtei 戦国時代、六角定頼(1495-1552 写真)は観音寺城を拠点に近江一帯を支配し、全盛期を築き上げた。

また、定頼は娘を細川晴元の継室としており、父・高頼の娘は第11代将軍足利義澄の継室だった。

足利義晴が近江朽木庄に下向したのは、この地が日本海・小浜に抜け、そこから義晴方の勢力圏である山陰の但馬や北陸・越前に逃れることができる要所であったことと、将軍家を支える数少ない”軍隊”でもある奉公衆・朽木氏の本拠地で、朽木谷には、公家衆・御供衆・申次衆・奉行衆などが三十名ほどいたから。


 享録4年(1531)正月末、近江湖北の浅井氏が攻めて来たので、義晴は坂本に移った。
また、6月には細川高国が三好元長らによって討ち取られ(「大物崩れ」)、翌7月には六角氏の観音寺城に隣接する桑実城に移った。
日本海に抜けるルートが安全でなくなり、政治・軍事力の支えであった高国を失なっては、もう一方の支柱である六角氏が頼りだった。

天文元年('32)定頼は細川晴元と和睦し、同3年('34)9月には入京を果たし、同6年('37)4月には娘を晴元の元に嫁がせている。

 しかし、同12年('43)実父・尹賢と養父・高国を晴元に殺害された細川氏綱が挙兵し、晴元が丹波に逃れると、義晴は氏綱と手を結ぼうとする動きがあり、晴元配下の三好長慶の弟・実休が阿波から2万の大軍を擁して渡海し来た。('46.10)

そして同16年('47)7月21日、「舎利寺の戦い」(現・大阪市生野区)で三好長慶・六角定頼軍が細川氏綱に大勝するに及んで義晴・義輝(前年12月20日に将軍職を譲位)は和議を結び、翌17年('48)6月には入京した。

ところが、晴元配下の三好長慶と政長が対立し、翌18年('49)6月「江口の戦い」で晴元・政長が大敗し、政長は敗死、晴元は義晴・義輝とともに坂本に落ち延び、京は氏綱を擁する長慶に制圧された。


義晴は翌19年('50)5月4日水腫のため死亡、まだ39才になったばかりだった。(自殺とも)(榎原雅治・清水克行編『室町幕府将軍列伝~足利義晴:西島太郎』参照)


「雷公は馬に乗り給う」

 関東甲信越地方ではこれまでもっとも早いという「梅雨明け」が発表された。

そう言えば、こちらでもが鳴ったようだが、「雷が鳴ると梅雨明けが近い」と言うのは、まんざら迷信でもないようだ。

42 平安時代、雷神信仰は「御霊信仰」の広まりによって天神信仰に統一され、北野天神の眷属神となっている。

菅原道真が無実の罪を怨み、その霊が雷となって落ちたと都の人々を震え上がらせたのだ。

そして、雷には「くわばら くわばら」と唱えると落雷が避けられると信じられたのは、京都の桑原という所がむかし菅公の邸があり、桑原には一度も雷が落ちず、災いを受けることがなかったから「くわばら くわばら」と唱えまじないをしたのだと。

 江戸時代中期以降に著された『耳袋』
(根岸鎮衛)に「雷公は馬に乗り給うという話の事」を取り上げられている。
一人の武士が雷雨の激しい夜に馬に乗って自宅へ急ぐ途中、近雷に驚いた馬がとある家の戸を蹴破って乱入。

これを家の人は落雷と思い込み、「世に雷は連鼓を背負い、鬼の姿と申しならわし、絵にも描き木像にも刻みぬれど大きな偽りなり。雷公が馬に乗りて陣笠のような物をかぶり給うなり。」と。 
(『気象の事典』、『耳袋1』平凡社参照)

「最後の管領」?

細川晴元の墓  三好義興が病没した永禄6年(1563)には、阿波細川家出身ながら三好家と終始対立をつづけた細川晴元も生涯を閉じている。

細川京兆家の家督を巡って細川高国と争い無念の死を遂げた父・澄元の跡を継いで、同じく祖父・之長を失った三好元長とともに阿波にいた足利義維
(第11代足利将軍・義澄の子、同12代将軍・義晴の弟)を奉じて「堺幕府(大樹)」を樹立したまでは良かったが、元長とはソリが合わなかったようで、結局は元長を死に追いやり、それがもとで子・長慶と延々と争いを繰り返した・・。

 晴元は「最後の管領」とも云われるが、正式には就任していないようだ。
「応仁の乱」後、三管領家の斯波・畠山両家は衰退し、「明応の政変」(1493)で管領・細川政元が第10代将軍・足利義稙を放逐したあとは京兆家による専制となったが、子どもの無かった政元が家督を争う澄之一派に暗殺
(「永正の錯乱」)され、高国vs澄元による「両細川家の乱」となって同門で争いを繰り返して衰退し、三好家の抬頭をゆるす結果となった。

細川宗家の家督相続・右京大夫・管領補任がワンセットとして捉えられがちで、確かに晴元は天文6年('37)右京大夫に任官し、正式に京兆家当主と認められ、管領とみなされたりもするが、管領職に就任したとする一次史料はないと。
また、戦国期の管領はもう政治的権限を有しておらず、重要な儀式などにのみ任命される臨時の役職に過ぎなくなっていたとも。

天文15年('46)、近江で足利義藤
(後の義輝)の元服と第13代将軍就任宣下が行われたが、六角定頼が管領代に任じられて烏帽子親を務めている。
晴元は定頼ほど将軍・義晴、義輝から信頼されていなかったようだ。

 永禄元年('58)六角義賢
(定頼の子)の仲介で将軍・義輝と三好長慶が和睦し、義輝が5年ぶりに上洛、同4年('61)3月30日に義興の館に義輝を迎えたさい、義輝は晴元を許すようにと進言し、5月晴元は10年ぶりに長慶に養育されていた嫡男・昭元に面会するとともに、和睦して摂津富田の普門寺(城)に隠棲することを承諾した。(4月23日に十河一存が死亡したことで、晴元の動きを封じるためだと)

しかし、その2か月後には坂本に残しておいた次男・晴之が六角義賢と兵を挙げ、一時は「勝軍地蔵山の戦い」で勝利するものの、「教興寺の戦い」('62.5.20)で三好方の大反撃に遭い晴之は戦死。
同6年('63)3月1日、晴元は普門寺で失意のうちに50才の生涯を終えている。

 普門寺は、後に三好三人衆に擁立された阿波公方・足利義栄
(義維の子)が入り、第14代将軍の宣下式が行われた。(1568.2.8)
 

三好家の悲劇

三好義興 悲劇と云えば、三好長慶が唯一の嫡男・義興をあたら22才で亡くしたことは三好氏の悲劇を予感させるものだった。

義興(1542-63
写真)は足利義輝('36-65)とは年齢も近く、ウマが合ったようなので彼が生きていれば後の歴史も変わっていただろうと・・。

 三好本宗家の通字は「長」であり、義興も足利将軍家の通字である「義」を授与され「義長」を名乗っていたが、「教興寺の戦い」('62.5)を契機に「義興」名乗り、「義」を通字としている。

彼にも妻がおり、永禄4年('61)3月30日将軍義輝が御成したときには、簾越しに能を鑑賞しているが、残念ながらその出自は不明だとのこと。
また、子どもはいないはずだが、義資という息子がいて一族をたより米子に移り住んだとの説も。

 永禄6年('61)6月、義興は病に倒れ、堺の名医半井驢庵が脈を診たが、すでにこの時重篤であったと。
29日には祇園社で平癒祈願が行われ、名医の曲直瀬道三(
まなせどうさん 1507-94)も呼び寄せ治療を行ったが病状は悪化する一方で、正親町天皇も勅筆を下し、平癒を願う神楽が催された。

8月29日、義興は芥川山城で死亡。
(死因は黄疸だったと)
葬礼は、11月15日長慶の深く帰依していた大徳寺の大林宗套(当時は南宋寺住職)が中心となって行われ、五山の禅僧も参列し仏事を勤仕した。(長慶は側室を持たず、他に子はいなかった)

将軍家が保護する官僧である五山が、林下の僧侶と同席することすら前例のないことであり、三好氏が将軍を上回る権威を示したことになり、世間では前代未聞のことと驚きを持って受け止められたと。(以上は天野忠幸著「松永久秀と下剋上」参照)

 ところで、義興を診察した曲直瀬道三は800人もの門弟を抱えていたとも云われる当代随一の名医と云われ、初めて中国医学を体系的にまとめて紹介した『啓迪集(けいてきしゅう)』は正親町天皇にも天覧に供し献上されるとともに、天皇の脈を診た。

また、織田信長は天正3年('75)彼の屋敷を訪れ、蘭奢待を与えている。(以上は「戦国王90」株式会社ハーパーコリンズ・ジャパン参照)

 ついでながら、天文21年('52)松永久秀に著書『黄素妙論』を贈っている。

これは”性の指南書”とも云われ、「養生は毎日の飲食の管理と、男女の交合。 暴飲暴食を慎み交合はほどほどにしていれば、誰でも病気にならず長生きできる」と説いている。
それを実行したのか、道三は当時としては異例の88才の長寿を全うした。
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