2018年07月

光秀はいつ義昭に仕えたか

14 足利義昭の忠臣と云えば、明智光秀は何時から足利義昭に仕えたのか。

永禄8年(1565)5月19日、将軍である兄・義輝が三好義継らに殺害され、義昭
(当時は覚慶)は奈良興福寺一乗院で松永久秀の監視下に置かれていたが、7月28日細川藤孝らの手によって脱出し、近江一乗谷の朝倉義景の館に入った。

義昭はこの一乗谷の地で元服しており、当時の足軽衆の中に「明智」の名が見えるのが光秀だとされ、彼はこの地で義昭の家臣となったようだ。

 この足軽衆は、故義輝の時代からのものや、元将軍家の政所執事・伊勢貞孝の旧臣、そして丹波衆など、永禄5年('62)に伊勢貞孝
(9.11久秀・三好義興に討たれた)とともに三好長慶と戦ったものなど、一貫して反三好の立場にあったものたちである。
当時の光秀は、このような者たちのように反三好氏の立場にあった訳ではない。

045 光秀は「美濃国住人、ときの随分衆也」と、土岐氏の家臣だったとされ、
美濃国明智庄
(岐阜県可児市:写真下は明智城跡)を領する土岐氏明智家の嫡男だったが、その前半生は定かでない。

主家土岐家が東山道の美濃を斎藤道三に奪われ、その道三も
弘治2年('56)息子の義龍に討たれ、光秀は放浪のあと朝倉義景に仕官して5500石を得たという。

 『多聞院日記』によれば、光秀は細川藤孝(幽斎 1534-1610)の中間であったと。
もともと室町幕府とは縁が深かった土岐家出身の光秀は、将軍家の側近で教養もあった藤孝に近づき、将軍家の再興に力を尽くすことで意見が一致し、彼の推挙によって義昭の家臣となったようだ。
 (「歴史読本2014.6~明智光秀の生涯:早島大祐」、「歴史をつくった先人たち 明智光秀」(株)デアゴスティーニ・ジャパン 参照)

久秀の失脚

松永久秀 永禄8年(1565)5月19日、三好義継・松永久通の軍勢が御所を襲撃し、将軍足利義輝を襲い殺害した。(「永禄の変」)

この時、奈良の興福寺一乗院の僧侶であった弟・覚慶(後の足利義昭)は厳重な監視のもとに置かれた。
松永久秀は、義昭の殺害を阻止したとも云われ、実際に害さないという誓紙を送っている。

 ところが7月28日、幕府奉公衆・細川藤孝や和田惟政らが義昭を一乗院から脱出させ、近江甲賀郡にある和田惟政の館・和田城に匿った。

さらに、8月2日丹波で松永久秀の弟・長頼(内藤宗勝)が荻野直正の居城・黒井城を攻撃中に戦死し、三好氏ははじめて領地を失い同地における三好勢力が大きく後退するとともに、波多野氏・柳本氏・赤井氏らの丹波衆が京都に攻め入ろうとの動きをみせ、京都周辺は一挙に緊迫化した。

 大和でも、これらの動きに同調し松永方から離反するものが出たり、謀反が起きるなど、松永兄弟の支配する国々が乱れた。

この他、義昭とともに河内守護代・安見宗房や大覚寺義俊らは、足利将軍家の再興に向けて、各方面に挙兵・上洛を促し「三好氏包囲網」を主導した。

 義昭を取り逃がしたという久秀の失態が、反三好氏勢力に大義名分を与え、結集を生んだことで、三好氏を窮地に追い込んだことから、三好長逸・宗渭・岩成友通は三好康長と飯盛城で当主である三好義継に久秀を見放すことを迫った。

ここに、三好本宗家から松永久秀が追放され、その地位を「三人衆」が継承することとなって、久秀と三人衆の抗争が始まった・・。 (天野忠幸著「松永久秀と下剋上」参照)

久秀の妻

松永久秀 松永久秀の妻となった広橋保子は、前夫である関白左大臣・一条兼冬(1529-54)の死後、久秀の継室となった。

一条兼冬の母は関白・一条冬良(1464-1514
:一条兼良の23子)の娘で、冬良の兄が土佐一条氏の祖となった一条教房(1423-80)。

教房は、嫡男・政房が文明元年(1469)「応仁・文明の乱」の混乱の中で巻き添えに遭って
摂津で横死したことから、摂家一条家を末弟・冬良に譲り土佐に下向したのだった。(兼良には26人の子がいた)

 武家伝奏で近衛家の家司でもあった広橋国光(1526-68)の妹・保子は、永禄7年('64)3月19日に没し、久秀は主君・三好長慶が父元長のために建立した堺の南宋寺に勝善院を建立している。

保子は前夫・兼冬と死別すると、弘治2年('56)後奈良天皇の後宮女房として出仕した。
当時、後宮には姉の国子も出仕しており、大典侍として天皇と間に皇女をもうけており、保子は大典侍の職を国子より相伝するはずであったが、翌年('57)9月に天皇が崩御し、正親町天皇が即位したので、職を辞して久秀に嫁いだ。

保子は公家社会に顔が利き、政治的にも影響力を持ち、三好氏と天皇、将軍との懸け橋となった女性であったと。
(久秀と保子との間には娘が生まれている)

典侍(ないしのすけ)は天皇のすぐ側に仕え、下からの申請や天皇の命令を取り次ぐいう女官で、典侍の上首であった大納言典侍の地位は、後花園天皇(在位1428-64)の乳母となった広橋綱子以来100年以上広橋家が相伝していた。
 
 藤原北家日野流の名家である広橋家は、鎌倉時代初期に日野頼資によって創立され、室町時代から江戸時代にかけて幕府との折衝役を務める武家伝奏役を多く輩出。明治維新後は伯爵の位を授けられている。(天野忠幸著「松永久秀と下剋上」、末柄豊著「戦国時代の天皇」参照)

「みつる心」

28 「つつしめよ みつる心は 望(もち)の夜の 月にも雲の かかるならひぞ(松岡みち子)

昨夜の皆既日食は、台風の影響か雲が出て見ることができなかった。 31日の火星・土星・木星・金星が勢揃いする天文ショーを期待することに・・。

 冒頭句は、世の中も満月を雲が遮るように何が起こるか分からないから、よくよく気を付けよとの意味。

「応仁・文明の乱」(1467-77)により、京を離れみずからの所領や地方都市に下向した廷臣が少なくなかったが、土佐国幡多荘(高知県四万十市)に下ったのが前関白一条教房(のりふさ 1423-80)。

「教」は第6代将軍・足利義教からの偏諱によるもので、応仁2年(1468)四万十川下流の中村に移り住んだ。
以来、幡多荘の支配が実効を上げ、7代政親まで100年余り「土佐一条氏」は存続した。

 ところで、子の房家(1475-1539)の子・房冬(1498-1541)は、一度も上洛することなく左近衛大将に任官している。(摂関家・清華家と将軍家だけが任ぜられていた)

時の後奈良天皇にとっては、在京して出仕することのない者を顕職に任ずることは容認できないものだったが、冬房の義兄・伏見宮貞敦親王
(房冬の妻は伏見宮邦高親王の娘)は禁裏に一万疋を贈り強引に任官を実現させた。(後で銭は返却された。 末柄豊著「戦国時代の天皇」参照)

  房家は永正5年(1508長宗我部兼序が本山氏によって滅ぼされたとき、その遺児・国親(元親の父)を保護して再興を援助している。

しかし、その30年後一条氏は長宗我部元親によって滅ぼされてしまった。

元親は、一条氏への恩から攻めるのをためらったが、弟・吉良親貞が「天罰は自分が受ける」と説得して攻撃。 親貞はその天罰故か一条氏の滅亡後まもなく30代の若さで死亡したと。

戦国時代の天皇

Emperor_Ogimach 戦国時代となって、朝廷は室町幕府に頼ることでできなくなり、諸活動は大幅に縮小せざるをえなかった。

阿波忌部が荒妙を献上した「大嘗祭」も、文正元年(1466)の後土御門天皇のそれを最後に200年以上も中絶することを余儀なくされている。

特に、後土御門・後柏原・後奈良の三代の天皇は、天皇の位のまま死を迎えている。
現在では不思議なことではないが、極めて異例なことであり三代も続けて在位中に没したのは七世紀
(斉明・天智・天武天皇)まで遡り、次は仁考・孝明・明治天皇までなかった。
「上皇」
(太上天皇)の制度があった時期においては他に例がない。

 永禄11年(1568)9月、織田信長が足利義昭を奉じて入京したとき、禁裏は築地塀もなく誰もが出入りできる民家と大差ない有様だったと。

朝廷を後援し、儀式を支えたのは室町幕府であったが、「応仁・文明の乱」(1467-77)による幕府の衰退したことは朝廷にも重大な危機をもたらした。
朝廷活動の大幅な縮小を余儀なくされ、その有り様を見直さざるを得なかった時期であった。

 後柏原天皇以降は皇位の継承を天下に告知する「即位礼」すら挙行するのが困難となり、祭場である大嘗宮を新しく造営する必要のある「大嘗会」は、九代にわたって中絶せざるを得なかった。

後奈良天皇は即位礼から9年経っても「大嘗会」が行えないことを、「下剋上の心」が満ち、「暴悪の凶族が幅を効かせて、地方からの貢納がない上に、数少なくなった所領さえ「守護の武士」が勝手に押領してしまっていると、幕府の守護を通じた支配体制が衰え「国の力の衰微」をもたらしていると嘆いた。

また、「応仁・文明の乱」の勃発で、後花園天皇が進めていた22番目となる勅撰和歌集の編集作業が立ち消えとなり、二度と編まれることはなかった。

 後土御門天皇は59歳となる明応9年(1500)9月28日、譲位をせずに崩御した。
院政のもとにない天皇が在位中に没したのは任治3年(1242)12歳で急死した四条天皇の一例しかなく、50歳を超えた場合は光孝天皇(830-887)まで遡る異例のことだった。

勝仁親王(後柏原天皇)への践祚
(剣璽(けんじ)を新天皇のもとに移す儀式)は、やっとのことで10月19日に行われたが、この費用は銭三万疋(300貫文。およそ3000万円)に及び幕府から5000疋の援助を受けた。

そして後土御門天皇の葬礼は43日後に行われ、践祚・葬礼の総費用は七万疋にのぼり、中陰仏事にも三万疋を要したが、会場となった泉涌寺へは一万疋しか払うことが出来ず、残額は幕府が負担したと。

後柏原天皇の即位式はさらに困難を極め、永正4年(1507)細川政元の暗殺、足利義澄と義稙との対立、義稙の出奔等々、たびたび延期されて践祚から20年余り経た永正18年(1521)3月22日に行われた。この時天皇はすでに50歳代半ばであった。
 (末柄 豊著「戦国時代の天皇」参照)
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