2018年09月

嗣治とレオナルド・ダ・ヴィンチ

Chapelle_Foujita 藤田嗣治は、仏で洗礼を受け「レオナール・フジタ」と名乗った。

戦争の勃発により日本に帰国した藤田は、陸軍美術協会理事長として戦争画を描いたことにより、戦後に戦争協力者と避難され「日本に捨てられた」との言葉を残して再びフランスに渡り、二度と帰ることはなかった。

彼の遺骸は自ら設計したフジタ礼拝堂
(写真上)に埋葬されている。

藤田はレオナルド・ダ・ヴィンチを尊敬していたようで、「レオナルド・フヂタ」と呼ばれることを望んだという。

04 そのレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)は、晩年の1516年フランソワ一世に招かれてフランスに赴いた。
そしてアンポワーズのクルーの地に館を与えられた。
(写真下:クロ・リュッセの館”クルー館”)

 それから一年後のこと、イタリアの枢機卿が訪問し、そのときの様子が秘書によって書き残されている。
右手は麻痺し、菜食主義者だったことからまだ65歳だったにもかかわらず、相当老けて見えたらしい。

そして、三枚の絵を見せたと。
その一枚がフィレンチェの僣主メジュリアーノ・デ・ヂィチの依頼による婦人像「モナリザ」だったと。(残りの二枚は「洗礼者ヨハネ」「聖アンナと聖母子」)
それから一年半後、レオナルドはクルー館でこの世を去った。

 ところで、ダヴィンチの埋葬地についてははっきりせず、遺骸は今も発見されていないと。
アンポワーズ城内のユベルト礼拝堂には、レオナルドの墓標があるのだが、死の40年後にユグノー教徒による宗教改革戦争が起き、この城で大虐殺が行われたためレオナルドの遺骸も掘り返されて他の場所に移されたと。 (「佐藤幸三編「図説 レオナルド・ダ・ヴィンチ」参照)


「散財王」

32 今年の阿波踊りは、ひと悶着あって観光客数も少なかったと。

そこで、阿波踊り見学中に倒れたという”バロン”薩摩(1901-76)のことを。

同じように徳島に来て亡くなったモラエスのことは耳にしても、彼のことはほとんど話題になることはない。 

パリの社交界で活動し600億円を使い果たしたと云い、「散財王」とも称されたと。

 昭和31年(56)日本に帰国し、同34年('59)親交のあった蜂須賀正氏
(阿波徳島藩最後の当主・茂昭の孫)の墓参りに訪れたときのことだった。

そして、彼が帰国し結婚したのが浅草の踊り子だったという徳島出身の真鍋利子だったので、そのまま徳島で20年間療養生活を送り同51年('76)75歳で亡くなった。
彼の墓は徳島市眉山町の敬台寺にある。

 本名を薩摩治郎八といい、近江商人だった祖父・治兵衛は一代で巨満の富を築き「木綿王」と呼ばれ、治郎八はオックスフォード大学に留学し、パリに活動の場を移した。
父からは月々1万円(当時の3000万円!)の仕送りを受けていたといい、当時パリにいた藤田嗣治(1886-1968)らを援助していたと。

その藤田嗣治の没後50年天覧会が東京都美術館で10月8日まで開催されている。

信長の思惑

Odanobunaga 天正8年(1580)、関係が怪しくなった長宗我部元親と信長の思惑はどうだったのか。

閏3月、本願寺と和睦し顕如が大坂を退去したことにより、信長のホコ先は毛利輝元や阿波・三好存保に向けられた。

 阿波では天正6年('78)初頭に十河存保が堺より下国し、長治亡き後の阿波再興を図ろうとしたが、同時に父・篠原長房を長治や存保に殺され、雑賀に亡命していた松満
(右京進・光)も入国していた。

松満は、長治に取り入って重臣となっていた叔父・篠原自遁に対抗し、長宗我部方に与する一宮成助と手を結び勝瑞城に入城したので、存保は讃岐へ自遁は木津城に退去するなど、阿波国内は分裂・内乱状態となっていた。

 これに対し信長は、三好康長
(咲岩)を登用するとともに、秀吉を中国・西国全体の取次に昇格させ、明智光秀・羽柴秀吉・三好康長の複数取次体制で、苦戦する元親を支援して阿波を元親・康長の共同支配とし、あとは両者を毛利攻めに動員しようと考えていたと。

秀吉は、由良や洲本を拠点とする水軍・安宅神五郎
(存保の弟)や野口氏を服属させ、11月には配下の黒田孝高らを淡路に出兵した。

 しかし、元親は秀吉の加勢に謝意を表しながらも、毛利攻めを念頭に置き、阿波三好家を再興する動きなどに強い不信感を抱くようになり、翌9年('81)8月には毛利輝元と同盟したが、11月の段階までは信長と元親の関係は維持されていた。
 (「四国と戦国世界~織田・羽柴氏の四国進出と三好氏:天野忠幸」四国中世史研究会 戦国史研究会 参照)

信長の心変わり

Tyousokabe_Mototika 長宗我部元親の四国制覇の夢は、信長の心変わりによって潰えた。

終にはその刃を信長に向けたのは、松永久秀が宿敵筒井順慶が重用されるに至って謀叛に及んだ心境と似通っているのではと・・。

 天正3年(1575)、土佐を統一した元親は四国制覇に向けて阿波の海部、さらには三好郡白地に加え、南伊の東西二方向から進出を開始した。

一方、信長との交渉は同6年('78)頃から見られ、10月に信長から嫡男・弥三郎に「信親」と名乗ることを許され、「阿波国のついては攻略を進めていますのでご安心ください」と、信長のもとで阿波国を攻めていると自らを信長派と位置付けている。

同7年('79)には次男親和を讃岐国香川信景の婿養子とし、同8年('80)には三好氏の有力拠点である羽床城や十河城を包囲するまでになっていた。

 だが、この頃から織田政権との関係も怪しくなりはじめた。
信長は、三好康長(咲岩:康慶と改名)を阿波攻略に介入させてきたのである。
(さらに、秀吉らに淡路国岩屋城に進出させるとともに、毛利氏と対立していた大友氏と薩摩島津氏との和睦を仲介するなど、四国のみならず九州にも目配りして毛利氏を牽制していた。)

同9年('81)になると、信長は従来の方針を改め、伊予・讃岐を召し上げ、阿波南部を土佐に添えて与えると通達した。
これに対し元親は、「四国のことは私の実力で平定したもの。」と拒絶。 そして、信長に対抗していた毛利氏と手を結んだ。

同10年('82)正月「取次」であった明智光秀は、斎藤利三に元親の義父であった石谷頼辰宛に出させ、頼辰は朱印状を持って土佐に下った。
しかし、元親が返事をしたのは5月21日付で、「御朱印(割譲案)に応じる」との返書が利三宛に出されたが、時すでに遅く「本能寺の変」(6月2日)を迎える・・。

 信長は、もともと元親の阿波侵攻を利用して三好氏の勢力を駆逐し、毛利氏の手が伸びる瀬戸内海の制海権を確保しておこうと考えていたとも。
ところが、元親が伊予・讃岐へと侵攻するに及んで元親に対して危機感を抱き、歯止めをかけるべく三好康長や秀吉を四国・淡路に投入したのだと。
 (「信長研究の最前線~信長はなぜ四国政策を変更したのか:中脇聖」日本史史料研究会編 参照)





石谷・蜷川氏と元親

Saito_Kuranosuke 蜷川新右衛門の後裔が土佐の長宗我部元親を頼った背景には、両者に深い繋がりがあった。

 四国を統一した元親と、織田信長との橋渡しをしたのが明智光秀とその重臣・斎藤利三(1534-82 写真)。

利三の妹は蜷川親長の室で、兄・頼辰は石谷光政の養嗣子となり、光政の娘が元親の室
(水心理因)となっていた。

石谷氏は室町幕府奉公衆で、頼辰は光政の後を継ぎ13代将軍足利義輝に仕えていた。

蜷川氏も政所代を務めていたが、義輝が三好氏に殺害され('65)、その縁で土佐の長宗我部元親を頼ったのである。
後に石谷頼辰も、「本能寺の変」('82)で明智光秀、実兄斎藤利三が敗死すると、元親を頼って土佐に落ち延びている。

 元親が石谷氏の娘と結婚したのは、細川京兆家が没落し細川家以外の幕府へのつながりを求めていたからだと。
嫡男・信親('65
生まれ)の教育には、京都から太鼓や笛、鞠の師を呼び寄せたり、側近を京都で弓法を学ばせたりしているが、これには石谷家や蜷川家との繋がりを活用していたようだ。

なお、石谷頼辰(?-1587)は、中央での経験を買われて元親に重用され、娘を信親に嫁がせている。
そして、信親とともに「戸次川の戦い」で戦死した。
 (平井上総著「長宗我部元親・盛親」参照)

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