2018年10月

茨ヶ岡城と鷲敷城

41 天正4年(1576)12月5日、阿波細川家最後の当主・真之が勝瑞城を去って居を構えたのが茨ヶ岡城。

茨ヶ岡城(現・那賀町和食郷字八幡原)は、「岡城」の別名のとおり標高108mの城山で、勝浦町飯谷の福良出羽守の導きにより仁宇山の奥に要害を構え、三好長治の追討軍に備えたと。

その三好長治が真之を追って逆に一宮成助・伊沢頼俊らの助力で荒田野口を追われ、別宮浦の長原の地で自害に追い込まれたのは、同年('76)12月27日とも、翌年('77)3月28日のこととも云われる。

 同地近くには、天正13年(1585)蜂須賀氏が阿波に入国して配置した「阿波九城」である仁宇山城(和食城・鷲敷城があった。
しかし、他の八城とは異なり、その所在地やその遺構は不明瞭だと。

その候補地については和食城や仁宇城が考えられ、『阿波志』によると「蛭子祠 和食村に在り国初山田三哲
(織部佐宗重)、行営と為して居る」とあり、『鷲敷町史』の仁宇山城の項では、山田氏は当初仁宇城(小仁宇城)に入りのちに和食城に本拠を移したとし、山田氏が使用していた井戸が鷲敷小学校の東にあったことから、和食城跡(現・那賀町和食郷字南川)が阿波九城にいう仁宇山城だだろうと。
(小仁宇城は、蜂須賀氏が入国する以前は湯浅氏の居城であった)

 ところで「鷲敷」の名の由来には、蛭子神社が古くは鷲敷社と称したていたことに因み、同社には蛭子の尊が楠木の丸木舟に鷲の羽根を敷いて天下って来たとの伝説があった。
また、地形的に那賀川が大きく湾曲した扇状地であることから、「曲敷・わじき」と伝説が重なったものとも。 (石井伸夫・重見高博編「三好一族と阿波の城館」、荻澤明雄著「続・徳島県地名考」参照)

ごじゅんけい道路の夜行さん

IMG_0320 川島町学の三ツ島渡しから南の山の方に真っすぐ通ずる道路を「ごじゅんけい道路」という。

昔、この道路に戦死した武士の幽霊といわれる夜行さんがよくでたと。
大の月の晦
(こもり)と小の月の朔(ついたち)の夜更けに、白い着物を着て白い首きれ馬に乗った一隊が、ジャンゴジャンゴと鈴を鳴らしながら、南の山から吉野川を一気に駆け抜けて北の山へ消えていく。
それで夜行さんを「ジャンゴハン」ともいう。

もし、夜行さんに出会っ者は、たちどころに取り殺されてしまうという恐ろしい化け物で、夜などにこどもがぐずぐずいうと、「そらジャンゴハンが来るぞ」というと、どんな子どももおとなしくなった。

 何時の頃か、「順慶坊」という山伏がこの三ツ島に来て、この話を聞いて村人が安心して通行できるようにと、吉野川の南岸に地蔵さんを建てて夜行さんを封じ込めたので、それからは夜行さんも通らなくなって村人もほっと安心した。
人々は、順慶坊の徳を慕ってこの道路を「ごじゅんけい道路」と名付けた。
吉野川の堤防の下に順慶坊が建てたと云われる地蔵さんが今も残っている。
(写真)

 また、この道路については次のような話も伝えられている。
昔、大名の政治の良しあしを調べるために時々回って来る幕府の役人を「御巡見使」といって、御巡見使が来るというと藩の役人は腫物に触るように恐れていた。

ある年に、御巡見使が吉野川をさかのぼって三ツ島渡しで船を下り、南の山すその山田の長者の家で泊まることになった。
藩の役人は大急ぎで田の畦をけずったりして田んぼの中を突き抜ける立派な道路を造らせた。

この道路を見て、「これはお前達がつくったのか」と尋ねると、村人は役人からいいふくめられていたとおり、「はい、私たちがお役に立つようにと思って、進んでつくらしてもらいました。」と答えた。

それでこの道路を「御巡見道路」というのだとも。 (「川島の昔話」より)

高越修験

PA0_0021 三好氏が畿内に進出するキッカケとなった「両細川家の争い」は、管領・細川政元が修験道に凝り妻を娶らず、子がいなかった上に三人も養子としたことによる後継者の座を巡る争いだった。

高越山は地元山川のシンボルであり、かっては修験道の山として知られた。
その起源は13世紀後半~14世紀に遡るとされ、”中の郷”にはその頃の板碑が残っている。

 修験道は古代の山岳信仰から生まれたという。
そして陰陽道や神仙思想、道教、密教などと融合しながら独自の主教として発展した。

日本人にとって山は神の鎮もる霊地であった。
修験道はこの山を修行の道場とした。

そして、修験道といえば役小角。
小角が活躍したのは天武天皇(在位673-686)の頃だという。
『日本霊異記』(822)によれば、「山中に修行し、孔雀経の呪法を修め、不思議な験力を示す仙術を身につけ、鬼神を自在に駆使することができた。半僧半俗の修行者である優婆塞とよばれ活躍したが、葛城山の一言主大神の訴えによって伊豆の島に流された」と。

空海が現れる100年以上も前に、密教である孔雀経の呪法を修め体得していた行者だった。
室町末期の編纂とされる『役行者本記』には、日本全域約100カ所に役小角の経歴地があるとも。

 高越山は、有力な霊山として広く知られていたが、大師信仰の霊場としてよりも修験道霊場としての側面が強かったとされ、四国遍路の札所には組み入れられなかった。 
(長谷川賢二著「修験道組織の形成と地域社会」、「別冊太陽 山の宗教」平凡社)


和泉上半国守護家

Hosokawa_Yusai 最後の細川家、和泉上半国守護家当主となった細川藤孝幽斎1534-1610:忠興の父)は、奥州家から細川元常の養子となった。

細川元常(1482-1554)と云えば、地元井上城
(山川町井上)の前身「泉屋形」に、京兆家当主の座を阿波細川家出身である細川澄元を擁して三好氏とともに細川高国と争い、敗れて何度も泉屋形に逃れてきた。

泉屋形の地は、鎌倉時代まで将軍家の直領である関東御領に次ぐ高越寺領で「高越寺庄」と呼ばれたところで、父・頼春とともに阿波に入国した細川頼有(1332-91)は兄・頼之とともに南朝の掃討にあたり、山岳武士が勢力を振るっていた種野山攻略のためこの地に進出し、その後秋月城を甥の義之
(弟・詮春の子)に譲り、この地に閉居したと。

大坊惣持院板碑(翁喜台)近くには菩提寺である大坊惣持院跡には、北朝年号である貞治2年(1363)が刻まれた立派な石碑が残っている。

 ところで、元常は澄元の死後も子・晴元を支援して、高国を継いだ氏綱と戦ったのだが、三好長慶が氏綱と結んで晴元や将軍足利義輝を近江に追ったとき元常も随行し、所領は長慶に奪われた。

天文23年(1554)死亡し、和泉上半国家による和泉支配は終焉し、高越(寺)荘は丹羽氏の代官であった土肥氏の支配するところとなった。 
(『高越山~高越山の歴史:田辺省造』、若松和三郎著「阿波細川家の研究」参照)



 

阿波細川家の最後

photo_007b 一門で8阿ヵ国もの守護職を占めた細川家も、戦国時代の終わりには和泉国上半国守護・細川元常の養子となった藤孝(幽斎:忠興の父)だけとなっていた。

阿波細川家最後の当主・細川真之(1538-82)の最後にも織田信長がかかわっている。

天正元年(1573)、7月信長は足利義昭を追放し、11月には「三好本宗家」三好義継を滅ぼした。

阿波では、7月「阿波三好家」当主・三好長治は反信長の急先鋒である篠原長房を討ち、信長への接近を目論んだものの、武田信玄は没し浅井・朝倉氏を滅ぼした信長には、長治と和睦する必要はなくなっていた。

同3年('75)4月には高屋城の三好康長も信長に降伏し、12月には本願寺も信長と和睦した。

このような畿内の情勢を見て、8月長宗我部元親は阿波侵攻を開始。
翌4年('76)12月、細川真之は長治を見限り勝瑞城を出奔し丹生山に拠った。 『三好家譜』によればこれには信長が背後にいたと云い、信長は国中の武士に三好長治を討つよう命じたとも。

これに対し真之を追った長治は、長宗我部に与していた一宮成助らの支援を受けた真之勢に荒田野で敗れ、ついには長原
(松茂町)で自刃に追い込まれた。

 堺から阿波に帰国した長治の弟・十河存保も、信長の死
(「本能寺の変」'82.6.2)を受けて一気に攻勢をかけた長宗我部軍との「中富川の合戦」(8/26)に敗れて讃岐に逃れると、元親は寝返っていた新開道善を謀殺し、その手は真之にも伸びた。

近隣の土豪と云われる露口兵庫ら数百人に居館を急襲され、10月8日茨ヶ岡で自害。
二百余年に渡って阿波に君臨した阿波細川氏はここに断絶した。
 (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」、天野忠幸著「三好一族と織田信長」参照)
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