2018年10月

「最後の管領」

細川晴元 三好長慶と細川晴元は、同じ阿波出身の父を持ちながら、最後まで敵対した。

不幸なのはその子どもたちで、長慶の子・義興(1542-63)は病没だったが22歳で亡くなり、長慶の人質となっていた晴元の嫡男・昭元(1548-92or1615)は皮肉にも命を長らえたものの、ろくに父の顔も見ることもできず、次男・晴之(1550?-61)にいたっては僅か10歳あまりで戦場で亡くなっている。

 永禄元年(1558)11月、三好長慶は将軍・足利義輝と和睦し、義輝は5年ぶりに近江朽木より帰京したが、この場に及んでも晴元は長慶と和解するのを潔しとせず坂本に止まった。
この後長慶は御相伴衆・修理大夫に任じられた。

同4年('61)になって、3月30日将軍・義輝は義興の館に「御成」したとき、義輝は長慶に晴元を許して懇情を結ぶよう勧めた。

これを受け5月6日、長慶は晴元を摂津富田庄普門寺
(写真)に迎え入れた。
『足利季世記』には、「多年旧功の主従なれば、三好殿旧懐の涙頻りなり」とあるが、実際は体のいい幽閉だったろう。

涙したのは晴元の方で、10年ぶりに嫡子信良
(後の昭元)と再会した・・。

 しかし、それでも「最後の管領」とされる晴元のプライドが許さなかったのか、近江に残してきた次男・晴之を旗印に2か月後には兵を挙げた。

実際は、晴元が娘婿である近江の六角義賢の思惑だったろうが、同じ長慶を怨む紀伊の畠山高政と通謀し、7月28日将軍山城
(京都市左京区北白川)に入り、畠山軍もこの年の3月に死亡した十河一存の居城岸和田城を取り囲んだ・・。

この戦いで、晴元の次男・晴之は戦死したと。
不憫な子を持った自分を悔いたのか、1年半ほど後の同6年('63)3月1日、
晴元も幽閉先の普門寺で波乱の人生を閉じた。 享年50歳




アレロパシー

6D1_a1904 10月21日は旧暦九月十三日の「栗名月」「芋名月」だった。

団子とともにススキを飾るのは、稲穂に似ていることから豊作への予祝からだと。

ススキの長い穂は。けものの尾にも似ているので「尾花」と呼ばれ、寂びた姿が日本人の伝統的感性に適うことから「秋の七草」にも挙げられている。


「山は暮れて 野は黄昏の 薄哉」(蕪村)

 最近、このススキの姿が少なくなり、代わってセイダカアワダチソウが増えていると・・。
16セイダカアワダチソウは北アメリカ原産で、明治末期に観賞用として日本に持ち込まれたのだが、花粉症の原因にもなるとして嫌われ「侵略的植物リスト100」(他にはホテアオイやヒメジョオンなど)にも上がっている。

その上、繁殖する場所がススキと競合し、その旺盛な繁殖力からススキが少なくなっているとも云われる。

 しかし、セイダカアワダチソウは虫媒花で花粉症の原因とはならないはずらしいし、他の植物の生長を抑えるという物質
(アレロケミカル)を出す”アレロパシー(「他感作用」)があり、3~4年でススキを駆逐するが、その後はその物質が一定量を超えると自らの種子に発芽障害をきたして劣勢になるのだと。

「二十六夜待ち」

img1_42 江戸時代、参勤交代のために街道が整備され、宿場も設けられた。

そんな中民百姓が旅することは禁じられていたが、「寺社詣」「伊勢参り」の名目で、代表者の何人かが輪番制で「代参」することが一般化した。

中でも伊勢参宮は爆発的に広まり、「講」が組織されて「御師
(おし、おんし)」によって引率から管理・運用まで面倒をまかせる旅行代理店のような例もあったようだ。
江戸中期には、約60~70万人、当時の人口の約3~4%程度の人が伊勢参りをする盛況ぶりだったと。

 ところで、今では考えられないが「二十六夜待ち」といって、夜中に月見をする風習があり、江戸の高輪にある道往寺は二十六夜待ちをする「月見寺」と呼ばれるほどの名所だった。

「二十六夜待ち」は、旧暦7月26日に行われ、この夜の月光には阿弥陀・勢至・観音の三尊が現れるといい、信仰を口実に夜中まで堂々と宴会をして遊べる夜だった。

ちなみに、2018年の同日は9月5日で、月齢24.7の三日月形、月の出は0:18、南中は7:32である。

 地方でも、月待の「二十三夜講」というのがあった。
こちらも集まって勢至観音や月読命などの掛軸を床の間に飾り、月の出るのを待つというのもの。
(他に「十七講」「十九講」も) 
 (「すべては江戸時代に花咲いた~タテマエ禁止のうらで世界に冠たる旅行大国:神崎宣武」農山漁村文化協会、BS朝日『円楽の大江戸なんでも番付』制作チーム「円楽の大江戸なんでも番付」、大島暁雄・佐藤良博・松崎憲三・宮内正勝・宮田登 編「民俗探訪事典」参照)

「芭蕉忌」

Rakushisha 今年は柿の豊作年のよう。
どこの家の柿も鈴生りだ。

『奥の細道』の旅を終えた芭蕉は、向井去来(1651-1704)の別荘”落柿舎”
(京都市右京区)に半月あまりも滞在した。

落柿舎の名の由来は、周りにたくさんの柿の木があり、ある年一杯生った柿を求めてきた商人に売り前金も貰ったのだが、その晩のうちに風で落ちてしまい、受け取った金も返すはめになったことからだと。

 芭蕉は、元禄7年(1694)10月12日51歳で没した。
寛文12年(1672)29歳のとき江戸に下り、32歳のときには「桃青」を名乗っている。
尊敬する李白には遠く及ばない、青い未熟な李
(すもも)だというのがその由来だと。

延宝8年('80)37歳のとき、日本橋から深川に転居した。
元禄時代(1688-1703)をむかえ、退廃気分が蔓延し、「点取俳諧」
(句を点者(宗匠)に採点してもらう。)の点者生活に嫌気がさしたとも。

『奥の細道』に出発したのは、元禄2年3月27日のことであり、おりしも西行の500回忌の年でもあった。

 10月9日は旧暦九月一日。旧暦九月の別名「長月」。
この語源は
「秋深み 恋する人の あかしかね 夜を長月と いふにやあるらん」(『拾遺和歌集』)

富士山初雪化粧

36 富士山が初雪化粧したと、ふもとの富士吉田市が宣言した。

やっぱり富士には雪を被った姿が一番よく似合う。

富士山と云えば、誰しも葛飾北斎(1780-1849)の『富嶽三十六景』の富士を思い浮かべるだろう。

当時、旅行ブームでもあり、同時期に発売された広重の『東海道五十三次』とともによく売れたと。

 改名・転居を30回も繰り返したという北斎が、「葛飾北斎」を名乗ったのは文化2年(1805)46歳のときで、その前の寛政7年(1795)には琳派の俵屋宗理を襲名している。

かといって琳派風の作品を描くことはなかったようで、改名の理由は不明だと。
役者絵や黄表紙などの浮世絵師本来の仕事から手を引き、狂歌絵本の挿絵や摺物を描き、このジャンルで一躍スターとして脚光を浴びるようになった。

 北斎は、絶えず新しい分野や境地に挑戦し続けたが、55歳(1814)のとき『北斎漫画』の初編を刊行し、これも人気を博して彼が90歳で死んだ後も出版は続き、明治11年(1878)の15編で完結した。

『北斎漫画』は、国内だけでなくヨーロッパにも伝えられ、ジャポニズムの原動力になった。
セザンヌは『富嶽三十六景』を見て、南仏の山を描いたと云われ、ゴッホも北斎が好きだったが、北斎ではなく広重の作品を模写したのは、パリで北斎の人気が高く、作品の値段も高くてゴッホには手が届かなかったのだと。
 (浦上満著「北斎漫画入門」参照)
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