2019年01月

「親魏倭王」

h79 邪馬台国の卑弥呼が魏に使節を派遣したのは、諸葛孔明が没して間もない239年のこと

孔明の北伐に対応するため、東方に軍を割くことができなかった曹魏だったが、遼東半島を中心に勢力を伸ばしていた公孫淵が、呉と通じて反乱を起こしたため魏の曹叡(明帝 205-239)は司馬懿(179-251)に4万の兵を与えて派遣し公孫氏を滅ぼした。 
これを祝って朝貢してきた倭国の使者に「親魏倭王」の金印が与えられた。


240年には帯方郡の太守が倭国に使節が送られ、その経路が『魏志倭人伝』に「対馬国から一支国(壱岐)へ渡り、末盧国(佐賀県唐津市)へ。その後、伊都国(福岡県前原市)を通り奴国(博多区・春日市)から不弥国・投馬国を経由して邪馬台国へ入った」と記されているが、今もってその道のりは明らかになっていない。

 親魏倭王は、孫呉の海上進出に対抗できる東南の大国・邪馬台国に贈られたものといい、これに対しての年号(赤烏紀年(244))が入った銘神獣鏡(写真)が兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳から出土している。

3世紀における日本には邪馬台国だけでなく、孫呉と関係を持っていた倭国が存在しており、敵国の背後にある異民族と結ぼうとしていたと・・。 (「2014.7歴史読本~東アジア世界から「親魏倭王」を見なおす:渡邉義浩」参照)

「墜星」

030 諸葛亮(孔明)が第五次北伐のさいに五丈原で病死したとき、大きな星が真っ赤な焔を引きながら堕ちたと云う。

蜀軍が苦戦したのは、秦嶺山脈を越える「蜀の桟道」
(写真)と呼ばれる険しい道を通らなければならなかったため、食糧補給が困難だったためだと。

 建興12年(234)、第五次北伐では現地調達を行ったが、魏の大将・司馬懿は持久戦の構えを崩さなかったので、孔明は婦人の冠と服を贈ってその臆病ぶりを冷やかしたが、孔明の智謀ぶりを知る司馬懿はその誘いにものらず、逆に孔明が最近は食事が進まないことを聞いて長期戦を決め込んだ・・。

 対峙すること100日、果たせるかな、まもなく孔明は重態となり8月23日息を引き取った。54歳だった。
この時、陣中に赤く光る星が西南から東北に二度跳ねて営の中に堕ちて消えたと云う。

孔明を失った蜀軍は撤退を余儀なくされ、魏軍はこれを追撃しようとしたが、車上の孔明の姿を見て生きていると思い進撃を止めたと。
(他説あり)
それは、孔明が遺言により孔明の木像を車上に据えたものだった。

「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿)を走らす」

 孔明の没後およそ30年後(263)、蜀は滅亡した。
しかし、蜀滅亡のわずか2年後、魏も司馬懿の子・司馬昭に
帝位を奪い取られ、その子・司馬炎(「武帝」)「晋」を建国した。

「祁山悲秋の風更けて 陣雲暗し五丈原
零露の文
(あや)は繁くして 草枯れ馬は肥ゆれども 
蜀軍の旗光なく 鼓角の音も今しづか 丞相病あつかりき・・」
(土井晩翠)  (「歴史読本 '73.12」、「図解 三国志」西東社 参照)


”クリムゾン・スター”

234 最近は屋根にスキー・キャリヤーを付けている車はほとんど見かけない。

最盛期には、週末の夜ともなれば各地のスキー場に向かうバスが何台も並んでいたものだが・・。

中でも雪質の良いと北海道は憧れの地だった。
北海道は上空の気温が低いことから水蒸気が少ないので、雪の結晶が小さくて「サラサラ雪」なのだと後から知った。

 星座観察はもうひとつの冬の愉しみでもある。
冬の星座の主役といえばオリオン座だが、その下のウサギ座の頭近くにあるウサギ座R星には”クリムゾン・スター”というしゃれた名前が付いている。

肉眼ではなかなか見えないので双眼鏡か望遠鏡が必要だが、「暗黒の中に滴り落ちた一滴の血」と称せられ、全天一真っ赤ともいわれるので、機会があれば是非覗いてみたいものだ。

 直径が太陽の400倍もあり、太陽の1万倍の輝きを放っているというが、1350光年も離れている赤色超巨星。
通常よりも炭素を多く含む「炭素星」なので、炭素が青い光を吸収し、より赤く見えるのだそうだ。

なお、”クリムゾンスター”は1年2カ月ほどの周期で5等星から11等星の間で明るさを変える変光星。2018年7月上旬が極大で、今は極小にむけて暗くなりつつあるとのこと。
 (「Newton 2019.2」参照)

その後の多聞山城

荒木村重 元亀4年(1573 7/28「天正」に改元)、「信長包囲網」が崩壊し、7月18日将軍足利義昭は追放され、11月16日には三好本宗家の義継も若江城で自害すると、松永久秀は多聞山城を引き渡して降伏するを申し出て、嫡男・久通の子を人質に出し信貴山城に移ることで許された。

久秀が離反したのは、義昭が筒井順慶に養女を嫁がせたための遺恨によるもので、信長に対しては敵意を持っておらず戦ったこともほとんどないことと、久秀の交渉力
('70.11「元亀争乱」時の阿波三好家との和睦交渉や、信長が危機に瀕した「金ヶ崎崩れ」('70.4)の際、朽木元網を説得し危機を脱した)を評価し期待したのではないかと。

12月26日、久通は多聞山城を織田方に引き渡し、翌天正2年('74)正月に岐阜に赴いて不動国行などを献上している。

同年3月、信長は三千の軍勢を率いて多聞山城にやって来た。
この時、正倉院の名香・蘭奢待を取り寄せて切り取り、正親町天皇に献上している。 ここに松永氏による大和国の支配は終わった。

 12月、久秀は剃髪して「道意」と号し隠居。翌3年('75)3月、塙直政が大和の守護に任じられた。
この後、河内の三好康長も信長に降伏、信長は堺の十河存保勢も駆逐、本願寺とも和睦して「元亀争乱」に決着をつけ、上洛以来7年目にして畿内を制し「天下人」となって、11月従三位権大納言兼右近衛大将に任じられ
(同左近衛中将である将軍・足利義昭を超える)、家督と岐阜城を信忠に譲って翌4年('76)安土城の築城を開始した。

 ところが、2月備後・鞆に移っていた将軍義昭の画策により、上杉・毛利氏らとともに反旗を翻した本願寺と争うようになり、5月3日雑賀衆の鉄砲に悩まされ織田軍が天王寺砦に撤退することになり、殿を務めた直政は戦死してしまった。
そこで信長は、「和州
(大和国)一国一円」の支配を筒井順慶に任せ、多聞山城の破却して建物を京都に移転する「タモン山家壊奉行」とする一方、久秀(当時69歳)・久通父子には佐久間信盛とともに天王寺の付城の定番を命じた・・。

この時は「木津川の合戦」('76.7.13)で解体は中断したものの、同5年('77)6月信長は多聞山城に在城して「高矢倉」を安土城に移すよう順慶に指示するなど、閏7月22日には多聞山城は解体された。

 宿敵・筒井順慶がまたも信長に重用されたことで、久秀には相当不満が溜まっていたことに違いなく、8月17日久秀・久通父子は天王寺付城を退去し信貴山城に籠城した・・。

と言っても、これは久秀の不満の爆発だけではなく、久秀の挙兵に応じて雑賀衆が和泉に出陣してきており、将軍義昭の上洛作戦に上杉謙信や毛利輝元らが応じ、織田軍を北陸・西国・紀伊から挟撃していた隙をついてのことだったとも。

 しかし、10月5日には人質となっていた久通の12歳と14歳の息子が六条河原で斬られ、10日久秀・久通父子は自害、奇しくも10年前大仏殿を焼失させた日と同日同時刻で、翌朝も同じように雨が降ったのは奇異と語られたと・・。
 (天野忠幸著「松永久秀と下剋上」参照)

多聞山城は宮殿だった!?

Tamonjou 多聞山城を「宮殿」と評したのは宣教師ルイス・アルメイダ。

永禄8年(1565)に多聞山城を訪れたアルメイダは、こう書き残している。

彼らの報告書はしばしば誇張されているとは言われるものの、「私は、都において目を楽しませてくれる美しく珍しい事物に接しましたが、これ
(多聞山城)に比べればすべてに劣っている」「日本中から多数の殿たちが見物に参っている」とまで述べている。

 現在、奈良の北端佐保丘陵にある城跡には市立若草中学校が建設され、その建て替え工事の際行われた発掘調査などにより礎石・瓦葺・高石垣という織豊系の三点セットを併せ持った、後の安土城に16年も先行した画期的な城だったと。

永禄4年('61)、東大寺戒壇院末寺の眉間寺を移転させ、北方を守護する多聞天(毘沙門天)祀って奈良の守護者であることを自任するとともに、多聞天の申し子とされる楠木正成のような明君になぞらえたとも。
新城の築城は三好氏にとって初めてのことで、三好長慶も城を築くことはなかった。

 久秀が長慶の命で大和に侵攻したのは永禄2年('59)のこと。
6月、岩成友通や松山重治が率いる2万の兵が攻め込み、8月には大将・久秀が伊丹氏や池田氏を率いて大和に入国して、一日で筒井城の筒井順慶を追った。

永禄5年('62)8月、棟上げを終えて迎えた翌6年('63)正月には茶会を催している。
この時、九十九(付藻)茄子茶入れと松本天目、そして平蜘蛛の釡が披露された。

また、11月にも津田宗達や今井宗久・若狭屋宗可・竹内秀勝を招いて茶会を催し、同8年('65)正月には千利休も招かれている。
 (天野忠幸編「松永久秀~大和多聞山城研究の成果と課題:福島克彦」、同著「松永久秀と下剋上」参照)



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