2019年03月

「忠義」

足利義昭 武士道でもっとも重んじられた「忠義」とは正反対の「裏切り」が横行していたのが現実だったとは・・。

「武士道と云うは、死ぬことを見付けたり」
(『葉隠』1716頃)

「名を惜しむ」武士の心意気は武士が登場した頃から生まれていたといい、『忠臣蔵』や歌舞伎『菅原伝授手習鑑』に見られるように、「忠義」は武士が最も希求した「名誉」のために、すべての徳目の最上位にあったと新渡戸稲造は『武士道』(1899)で指摘している。


「敷島の 大和心を 人問はば 朝日に匂ふ 山桜花」
 
ちょうど桜も見頃となってきた。
日本人の精神を「いさぎよく散る」桜にたとえた江戸時代中期の国学者・本居宣長の和歌。

 中国にも大義のためにわが子を巻き添えにした逸話が「大義親を滅す」として残っている。

衛の荘公は、斉から美人の荘姜を娶ったが子がなかった。また、陳からも厲嬀を娶り一子を生んだが早死。そして厲嬀の妹・戴嬀に生ませた子が次の恒公となった。

ところが、妾に州吁という男子があり、荘公はたいそう可愛がり、したい放題にさせていた。
そこで、大夫の石碏がいさめて「正しい道を教えないと、寵愛をかさにきて禍を起こされましょう」と忠告したが、聞き入れられることはなかった。

 やがて、恒公が位につくと案の定州吁が恒公を殺害した。
しかし、人心の心を把握することはできなかったので、州吁と仲良くしていた石碏の子・厚が石碏に尋ねた。

石碏は「周の王室にお目見えすることだな」、「陳の国は周王室と親しいし、陳と衛の仲は良いので、陳へ行って頼めばよかろう」と答え、厚は州吁のお供をして陳に向った・・。

 石碏は使者を送って「衛は弱小の国、そちらに向かった二人は、わが君を殺したやからゆえ、どうぞご存分に処置してください」と陳に告げたので、二人は誅殺された。

州吁を罰するためにわが子も巻き添えにし、大義のため親
(しん)を滅ぼしたと称賛されたと。 (山本博文「100分で名著 武士道」、飯塚朗著「中国故事」参照)

「裏切り」

足利義昭  足利義昭にとって三好氏は兄・義輝を殺害した仇敵。 
何があっても許せる相手ではなかった。


なので、松永久秀が三好氏との間を仲介し和睦交渉を取り持ったことは、例え上洛の支えになった信長との和睦であっても我慢がならなかった?

そして、何よりこの頃に義昭は上洛の恩義は忘れ、信長と距離を置くようになり独り立ちを目指していたようだ。

そこで、信長は「五ヵ条の条書」(1570.1.23)を義昭に突き付け、その行動を慎むように忠告したのだった。

一、諸国へ御内書をもって仰せ出さるる仔細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事、
 (大名たちに御内書を出すときは、まず信長にその旨を言っていただき、信長からも書状を添える。)
一、天下の儀、何様にも信長に任せ置かるるの上は、誰々に寄るに及ばず、分別次第に成敗を為すべきの事、
 (天下の子とは、ともかく信長に任せたのだから、誰であっても将軍の意思を伺う必要はない。信長の意思どおりに行う)
・・・

 さぞかし、義昭はムッとしたに違いない・・。
(「けしからん! この将軍様を何様と思っているのだ。 こうなれば、いつまでも信長に頼ってばかりはいられない。もっと従順な家臣を見出さなければ・・」と)

この時、筒井順慶(1549年生まれ)はまだ若干21歳。
もう還暦を過ぎた老練な久秀(1508年生まれ)よりも扱いやすいことは間違いない。

 戦国の時代。
誰もが自分の利益のためだけで動いていた・・。

合戦の決め手は「裏切り」。
壇ノ浦も関ケ原も、勝敗の決め手は「裏切り」にあった・・。
先日、惜しまれながらなくなったドナルド・キーンさんも「日本人と日本文化」の中で指摘している。  (谷口克広著「信長と将軍義昭」参照)


足利義昭の思惑

足利義昭 足利義昭は、なぜ松永久秀を怒らせてまでして筒井順慶と手を結ぼうとしたのか?

三好長慶の死後、「三好三人衆」
(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と対立した松永久秀は、永禄9年(1566)には劣勢となり織田信長・足利義昭との同盟を結んでいた。(写真は足利義昭像)

 ことの発端は、筒井順慶が加わった三人衆との対立が激化していた元亀元年('70)11月、久秀は娘を信長の養女として阿波三好家・長治に嫁がせることとして和睦を仲介し、12月7日には阿波・篠原長房からは久秀に人質が遣わされて(三好氏と信長・義昭間の)和睦が成立したことにある。 

これにより筒井順慶と三好三人衆共闘体制は崩れることになる。
この背景には9月にそれまで
信長に友好的だった本願寺が敵対したうえに、これに呼応して朝倉・浅井軍が坂本方面に進出して来た。 信長と朝倉・浅井両軍は比叡山の麓で布陣し、12月までにらみ合いが続いたことがある。(「志賀の陣」12月13日和睦)

 翌2年('71)5月、松永久通は指揮下にあった安見右近が足利義昭直臣の和田惟政や畠山秋高と申し合わせて敵対したため、右近を討ち居城交野城(大阪府交野市)を、三人衆は秋高の拠る高屋城を攻めた。

そんな中で、6月11日義昭は九条家の娘を養女として久秀の宿敵である筒井順慶に嫁がせ、味方に引き入れたのである。
これにより久秀と足利義昭の手切れは確実となった。

義昭(+信長)としては、三人衆・本願寺・朝倉氏による(信長+義昭)包囲網に危機感を抱き、一人でも多く援軍が欲しかったことから、かっては興福寺の一乗院覚慶であった縁で筒井氏を味方に取り込んだのであり。
久秀にしてみれば、三好義継の下に三人衆・阿波三好家ととも結集することになり、義昭を支える理由がなくなっていたと・・。
 (金松誠著「筒井順慶」、天野忠幸著「松永久秀と下剋上」参照)


赤松氏の終焉

Okishio 三好長慶四兄弟が淡路洲本城に集ったのは、播磨国守護赤松晴政を救援するための談義だったが、赤松氏側ではそう思ってはいなかったとも。

赤松氏は南北朝の動乱期、赤松義則(1358-1427)の時代に播磨・備前・美作国の守護職となっていた。

明応5年(1496)、赤松政則の死により義村が就任したのだが、当時権勢を誇っていた浦上氏を討伐するためたびたび出兵したものの敗北を繰り返し義村の権威は失墜。
永正17年(1520)家督を息子・政村
(後の晴政)に譲ったが、翌年('21)9月に義村は浦上村宗の被官人によって暗殺された。(写真は居城とした置塩城(姫路市)

 享録4年('31)、管領・細川高国を阿波の細川晴元や三好元長らが自害に追い込んだ「大物崩れ」(6/8)では、赤松政村が同じ高国側であった父の仇・浦上村宗を、晴元と内通して討ったことが晴元側勝利の大きなキッカケとなった。
しかし、宿敵浦上氏を滅ぼしたものの、播磨国内の状況は定まらず、勢力範囲は実質的に西播磨方面に限定されていた。

天文6年('37)になると出雲国尼子詮久(あきひさ)が播磨に進攻して来た。 翌7年('38)には、政村は淡路に逃れるなど流浪生活を強いられることになる。
先年の恩義もあってか、同8年('39)8月には阿波勢(細川持隆・三好実休)の援助を受け播磨の奪還を目指したが叶わず、再び和泉国堺に落ち延びたと。

 やがて、尼子氏の播磨進攻はひとまず収まったが、天文23年('54)今度は三好氏が東播磨に進出して来た。
長慶に援助を求めたのは赤松氏の支族で摂津三田城の有馬重則のようで、勢力を伸ばしてきた同じ支流の三木氏へ対抗するため、9月三好長逸が派遣され「別所方城々七つ落なり」と。(『細川両家記』)
10月12日の洲本での兄弟会談はその経過を「世上の儀内談候由」とも。

かくて、長慶は明石氏や”東播の雄”である別所氏も服属させ、赤松氏の弱体ぶりは一層顕著となり、尼子詮久に将軍足利義晴は備前・美作を含む六か国の守護職を与えた。(これを受け詮久から晴久に改名)

 この後、永禄元年(''58)に晴政は子・義祐に家督を奪われ、娘婿の赤松政秀の元に身を寄せた。

義祐とその子・則房については史料が乏しくその事蹟は定かでないと。
織田信長の上洛の後、天正4年('76)義祐が、慶長3年('98)には則房が没して赤松氏は事実上滅亡した。  (渡邉大門著「赤松氏五代」、長江正一著「三好長慶」参照)






ハハコグサ

45 珍しいことと云えば、徳島では”ひな祭り”に鯉や鮎の形をしたお菓子(餅)をつくるのは、他県にないことだと。

我が家ではそんな習慣はなかったが、この季節になると蓬
(よもぎ)を使った”草餅”をつくっていた。

 かっては、ヨモギの代わりに「春の七草」のひとつ”母子草
(ゴギョウ)が使われていた。

草の香りには邪気を払うと信じられていて、三月三日の上巳の節供には母子草を混ぜ込んだ草餅を食べる習慣が中国より伝わり、平安時代には宮中行事として定着して、上巳の日には宮中の女房たちが野山に出て母子草を摘み、草餅にして食べていた。


江戸時代になって、女の子の健やかな成長を願う「雛祭り」として庶民にも広まるとともに、母子を搗くのは縁起が悪いとして、次第にヨモギを使用するようになったのだと。

また、現在では、青(緑)・白・赤の菱餅が普通だが、その頃は青・白・青の三段重ねだったとも。


 ところで、徳島で鯉や鮎の形をしただ菓子(餅)をつくるのは、王朝文化を彩る行事である「曲水の宴」が行われており、この日には水辺に出て遊ぶなどの習俗あり、全国の多くの地域では蛤(ハマグリ)を供えたり、食べたりすることから、水辺の祓に由来するものだろうと・・。 (青木直己著「和菓子の歴史」参照)

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