2019年04月

伊勢氏と三好長慶

img_5 伊勢氏と云えば、三好長慶の時代に伊勢貞孝( ? -1562)父子は戦死し、伊勢貞継(1309-91)以来長く続いてきた政所執事としての伊勢氏の歴史は終焉を迎えている。

天文18年(1549)6月、「江口の戦い」で長慶は細川晴元を破り、将軍足利義晴・義輝父子は晴元とともに近江・坂本に逃れていた。

同20年('51)1月、貞孝は進士賢光らとともに将軍の京都帰還を試みたものの叶わず、貞孝は義輝を捨ててひとり帰京した。 
どうやら貞孝と義輝は相性が良くなかったようだ。
(義晴は前年('50)5月、穴太で病死)

3月14日、長慶は貞孝に招かれて伊勢邸で碁や乱舞を楽しんでいたとき、進士賢光が3度にわたって長慶に斬りつけ、手傷を負わせ賢光はその場で自害するという事件があった。
しかし、これは将軍義輝の計略であり、貞孝は加担していなかったようだ。 

 その後、同21年('52)1月に六角義賢の斡旋により、長慶と将軍義輝の和議が成立し、細川晴元は氏綱に家督を譲って出家し、長男・聡明丸(後の昭元・信良)を人質として長慶に預けた。 

貞孝は三好与党となって戦いにも参陣していたが、永禄5年('62)1月十河一存の死により攻勢をかけて来た六角義賢により京都を占領されたとき、貞孝は京にとどまり政所沙汰を公然と行ったことから、長慶・義輝双方の怒りを買い、6月に長慶・義輝が復帰すると更迭されて失脚した。

すると、8月には貞孝と子の貞良は六角氏・畠山氏と通謀して兵を挙げ京都に入ったが、三好義興・松永久秀の8000の兵に攻められ、9月11日貞孝・貞良父子は討ち取られた・・。

 ただ、孫の貞為・貞興は若狭武田氏を頼って生き延び、貞為は三好三人衆が擁立した阿波公方・足利義栄の仕えたと。
しかし、織田信長に奉じられて足利義昭が上洛すると、今後は代わって貞興が義昭に仕えた。
その義昭も信長に追放され鞆に落ち延びたが、それには貞興は追従せず明智光秀の与力となり、最後は「山崎の戦い」で戦死した・・。

ところが、貞為の子は徳川家に仕え、子孫は有職故実に通じていたことや伊勢礼法を大成し、明治まで脈略を繋げた。

「奉行人」

飯尾常房墓 飯尾常房は父・真覚とともに在京して阿波守護家・細川氏を支えた。(写真は鴨島町飯尾・報恩寺の常房の墓)

しかし、「応仁の乱」(1466-77)以後はほとんどの大名が在国するようになった。
特に「明応の政変」(1493)により守護大名の在京原則は崩壊し、将軍の権力基盤は近臣や奉公衆などの直臣層のみとなった。

将軍の権威を背景に分国支配を行っていた守護大名に代わって、戦国大名は自らの力で領国を統治することになり、守護代層などが表舞台に登場することになる。

 ところで飯尾氏ら奉行人は、文筆専門家・法曹家として世襲的に引付や政所・侍所などの幕府機関に配属され、当初の業務は、将軍や執事・管領が発給する文書の清書をする”右筆(ゆうひつ)”であったが、次第に法曹エキスパートとして政治的地位は上昇し、幕政を支えていた。

その主な業務は、裁判結果の伝達をはじめ、将軍の意を奉じる奉行人奉書の発給で、室町時代中期の代表的な奉行人としては、飯尾氏のほかに斎藤・布施・松田・治部氏らがいた。
しかし、「明応の政変」以後には幕府の諸機関は衰退・消滅していった。

 似かよった名に「奉公衆」があるが、こちらは将軍直属の親衛隊とも云うべきもの。
室町将軍には直属の軍事力はほとんどなかったので、将軍に近侍し御所の警護や外出の際のお供役などを務めた。
「御番衆」とも云われ、足利一門や守護一族・有力国人らが五ヶ番に分かれ、各々50~100人で編成されていたが、奉行人と同様に「明応の政変」後は徐々に形骸化していった。

 また、飯尾氏や松田・斎藤氏は、幕府の屋台骨である財政と領地に関わる訴訟を司る「政所」の執事代(実務担当のトップ)にも進出していた。
政所のトップは伊勢氏で、三代将軍義満のときに伊勢貞継が任じられて以後、代々伊勢氏の世襲となっていた。

伊勢氏は、将軍の養育係をつとめることもあり、将軍家の家宰的存在となり、最後の将軍・足利義昭が織田信長に追放されるまで重要な役を担っていた。

中でも伊勢貞親(1417-73)は、8代将軍義政の近臣として勢力をふるい、「応仁の乱」ぼっ発の要因になったとも云われる。   (丸山裕之著「図説 室町幕府」、呉座勇一著「応仁の乱」参照)



「鴨島」

56 鴨島町の名前の由来は、文安5年(1448)「掃部(かもん)島」と『仙光寺文書』にあるのが初見だと。

その後、分亀2年(1502)に「鴨島道了入道 掃部太郎」の名が見える。
明治22年(1889)に鴨島村、同41年(1908)に鴨島町となり、大正4年(1915)の吉野川の改修工事により陸続きとなった粟島を編入。
昭和32年(1957)に柿島村の知恵島を合併して今の鴨島町となった。

「鴨島」は、①鴨が多いから、②蒲が多く生えていたから、③賀茂神社から
(鴨島には賀茂神社の分祀はない)、④神島から、⑤中島の上(かみ)から、⑥人名(掃部:かもん)から等、諸説あるが、
隣接する石井町の「浦庄」の上
(かみ)に位置していることや、麻植保司庁のあった森藤の上の意から、「上島」から転訛したものだろうと。(徳島では沖積地のことを「島」と呼んでおり、この辺は吉野川沿線の沖積平野)

 飯尾の報恩寺には飯尾常房の墓がある。
また、飯尾には呉郷、唐人の地名と、呉谷・唐谷の名があり近くには呉島も。

『日本書紀』応神天皇三十七年の条には、中国の呉から織女、縫女を招き手ほどきを受けたとあり、この人たちが居住したのが呉島と云う。

 ちなみに、和銅6年(713)編纂された地誌に、麻殖郡の郷名には呉島・忌部・川島・射立がある。
また、「麻植」と木へんで書かれるようになったのは、正保年間(1644-47)以後のことだと。

「阿波」は大化元年(645)、園瀬川を境に南方の長国を北方の粟国に統合して生まれ、「和名抄」には七郡、四十六郷が記され、その過半が今も字名に残っているようだ。 (荻沢明雄著「徳島県地名考」参照)


飯尾彦六左衛門常房

Hosokawa_Shigeyuki  「汝や知る 都は野辺の夕雲雀 あがるを見ても 落つる涙は」

阿波守護・細川成之(1434-1511:写真)の被官人・飯尾彦六左衛門常房(1422-1485)が「応仁の乱」で荒廃した京を有り様を嘆いて詠んだ。

飯尾氏の祖は三善氏で、麻植庄を本領とし飯尾の地名をとって飯尾氏を名乗ったと。

飯尾氏は、東条氏とともに宿老衆として成之を支えた。(東条氏には、後年長宗我部元親にいち早く降り、木津城主として秀吉の四国攻めに対抗した東条関之兵衛がいる)

この頃、三好氏は之長(1458-1520)の時代で、之長は永正4年(1507:49才)頃には馬廻衆だった。

 常房の父・真覚(因幡守久連)は、在京する成之の父・細川持常の時代からの在京宿老で、庶政を担当し守護代に命令を伝達するとともに、財政も担当し「後見無双」と評されていた。(その頃阿波は藍・木材などにより国力も充実していたようだ)
この頃、南部方面地域の守護代は東条近江守で、西部の美馬・三好・麻植の三郡の守護代は三好式部少輔(長之)だった。

 真覚の子に彦六と喝食(禅宗の下級役僧)がいた。
常房も成之の重臣又は奉公人で左衛門尉を称し、父・真覚と同時期に活動していた。
「彦六」は飯尾氏の世襲輩行名、「左衛門尉」・「因幡守」は世襲官途で、応仁元年(1467)以後真覚の消息は定かでないと。

 なお、細川宗家や畠山・斯波の三管領家にも有力被官人に飯尾氏がいて、京兆家と阿波細川家それぞれの奉者・内奉行の要職を占め、同族連合体の紐帯として機能していたとも。 (以上 若松和三郎著「阿波細川氏の研究」参照)

飯尾氏の後裔は「脇城外の戦い」(1579)、「中富川の合戦」(1582)で戦死し、その一族が石原氏を改名して帰農したと云われる。

阿波守護・細川成之は「応仁の乱」に際しては東軍の主力として出陣したが、社会は戦乱の様相を深めて急変し、三好氏が抬頭するとともに飯尾氏はその地位を失っていったようだ。




雲雀

ひばり ここ数日は、春というより夏のような暑さが続いている。

我が家では、毎日ツバメが巣づくりに余念がなく、入れ替わり立ち代わり何羽もの家族が軒先に飛来する。

 そこで、もうひとつ春の鳥ヒバリのこと。
気が付いていたとおり、最近見かけることが少なくなった。
耕地面積が減ったというが、私的にはヒバリといえば麦畑から舞い上がる風景を思い出すが、もう麦をつくる農家がなくなったことが最大の理由ではないか。


「うらうらに 照れる春日に 雲雀上がり 心悲しも 独りし思へば」(大伴家持)

「令和」への改元が『万葉集』からに由るということで、最近特に注目されているが、家持は『万葉集』に一割を超える約四百八十首が載り、その編纂に深く関わったとされる。

 ところで、雲雀の名は、晴れた日にさえずることから「日晴」が語源とも云われ、空高く舞い上がって鳴くことからか英語でも「SkyLark」と呼ばれる。

別名にも「天雀」、「臊天」、「告天子」、「叫天子」などがあり、急上昇する様は「揚雲雀」、急降下する様を「落雲雀」、空高くで遊ぶ様を「舞雲雀」などの他、「朝雲雀」、「夕雲雀」と風情に富む。


「そんなにも 空が好きかい ひばりさん」(松浦敬親)

 (大橋弘一著「日本野鳥歳時記」、「新日本大歳時記 春」講談社 参照)
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