2019年06月

誰が細川真之を殺したのか?

細川真之の墓 細川真之は、「中富川の合戦」(1582.8.28)直後の10月8日仁宇谷の奥茨ヶ岡で自害した。

茨ヶ岡は、真之の居城・岡城、茨岡塁があった八幡原一帯で、逆徒数百人によって自害に追い込まれ、200年余り続いた阿波細川家は滅亡した。

 この逆徒は、「兄の仇」と思う十河存保が差し向けたとも云うのも道理だが、存保は先の「中富川の合戦」に敗れ讃岐にあって、遠隔地の茨ヶ岡に『三好記』に云う「山林の逆徒」・「数百人」
を派遣するには無理がある。

若松和三郎氏が
『阿波細川氏の研究』で「近隣の土豪」としているとおり、元親が縁戚関係を結んだとされる仁宇城主・仁宇伊豆守正広が、土豪を招集して秘密裡に抹殺計画を実行したのだろう。

長宗我部元親は、「中富川の合戦」後の9月16日に新開道善、11月7日には一宮成祐を三好側に内通しているとして謀殺している。

 実は9月の初頭には、明智光秀を討った秀吉の命により仙石秀久・生駒親正・黒田孝高らが存保を救援するために阿波に派遣され木津城に入っていた。
しかし、勝瑞城が落城したことで支援に見切りをつけ、木津城や土佐泊城を拠点として確保し撤退していった。

このようなこともあり、元親は阿波国を支配するための憂いをなくそうとしたのだろう。
そして、翌年('83)には土佐国方式での検地を行っている。
 (平井上総著「長宗我部元親・盛親」参照)

細川真之出奔の背景

 三好長治自害地碑 「丹生」と云えば、勝瑞城を出奔して仁宇山に拠った最後の阿波守護・細川真之と、異父弟である阿波三好家当主・三好長治との対立の原因は何か。

天正4年(1576)12月5日、真之は夜中に久米源三郎と弟・喜四郎とで出て、飯谷
(生夷(いくいな)の口・井伊谷)の福良連経の案内で那賀郡仁宇山に入ったと。(『昔阿波物語』)

これは、長治の横暴な振る舞いや細川守護家と三好家の対立などとされているが、敗戦の将は厳しく非難されるのが通例であり、長治はそれほど無能ではなかったとも。

 この頃の畿内の情勢は、天正元年('73)7月信長は将軍足利義昭を追放し、朝倉・浅井氏を滅ぼして11月には三好本宗家当主・三好義継を討っている。

同3年('75)5月には「長篠の戦い」で武田軍を破り、11月従三位・権大納言に叙任し右大将に任官、12月には本願寺と和睦し
(翌年再び挙兵)、翌年正月には安土城の築城を開始した。

 ところで、長宗我部元親が阿波に侵攻したのは天正3年('75)秋のこと。
海部城を陥落させると由岐・日和佐。牟岐・桑野・椿泊・仁宇の国衆たちは元親に降った。
この時、桑野城主・東条関之兵衛は元親の養女を娶たことはよく知られているが、仁宇城の仁宇伊豆守正広も縁戚関係を結んだという。


『昔阿波物語』では、一宮成相が元親や紀伊国に援軍を求めたといい、『三好家譜』にも「信長則国中ニ令シテ三好長春ヲ誅セシム」とあり、天野忠幸氏も信長は旧守護家を介して讃岐や土佐の国人を三好氏との戦いに動員しようとしており、真之を支援していても不思議はないと。 (「四国と戦国世界~織田・羽柴氏の四国進出と三好氏:天野忠幸」四国中世史研究会戦国研究会、平井上総著「長宗我部元親・成親」、「歴史群像~阿波畑山城:福永素久」Gakken 参照)

「十八女」

18 阿南市加茂谷地区に「十八女(さかり)」町がある。

その名前の由来には、平家の落人が十八歳の姫を守ってこの地に落ちのびたので「娘ざかり」を転じて村名にしたとか、太龍寺の麓にあるから「坂入り」からの転訛したと伝えられる。

また、荻澤明雄氏は『続・徳島県地名考』で、寛文4年(1664)大井村
(現・大井町)から分村した枝村で、那賀川を挟んで離れていたので「離れ・さかり」と呼んだのだろうと。(両村の間に那賀川が割り込み、右岸が水井町)

 一方、矢嶋澄策氏「日本水銀鉱床の史的考察」では、「3.丹生という地名と水銀鉱床」の中で、やまとの水銀・丹砂を採取していた吉野着の祖先は井氷鹿または井光で、光のある井戸を表していた。(『古事記』の中に、八咫烏が神武天皇を導いて吉野川に至る場面に井氷鹿、石押分が現れ、『日本書紀』には井氷鹿を井光として同じ物語があると)

丹生の近くには井光や類似した”いびか”、”いかり”などの地名が多く存在しており、由岐水銀鉱山の近くにある「十八女」(さかり)を紹介している。(由岐水銀鉱山とは、明治19年(1888)になって再開発された水井鉱山(=若杉山)のこと)

 余談だが、その中に丹生の地には必ずともいえる程に弘法大師の伝説が付随していると指摘。
空海が高野山に金剛峯寺を建立するとき、夢枕にニウズヒメ(丹生明神)が現れ暗示を与え、丹生明神と高野明神の二社を守護神とした。

そして、空海の衣鉢を継いだ真言宗に属する山伏なる修験道者が、全国津々浦々を歩いて修験に励みながら、地下資源の発掘にもひと役買った。
山伏の霊地とされる出羽三山の湯殿山にも丹生池の名があり、水銀の存在が確認されていると。

「任那」

koukaidoouhi G20が大阪で開催されようろしているが、隣国韓国との関係は最悪の状態。

これ程までに慰安婦・徴用工問題がこじれるのには、秀吉の朝鮮出兵や日韓併合などの歴史的経緯がわだかまりとして消え去っていないからだろう。

 前記事、国史跡となった「若杉山辰砂採掘遺跡」から辰砂が採られていた弥生時代後期~古墳時代前期
(1~4世紀後半)の頃にも、朝鮮半島南部沿岸に「任那(みまな)」という日本・倭国の支配する国・地域があった。
そして、14基もの前方後円墳があるのだと。

既に前漢(BC202-AD8)の時代に楽浪郡
(平壌)には倭人が住み、鉄などの交易に関わり、57年後漢・光武帝のとき奴国に金印「漢倭奴国王」が授けられた。

 「任那」の前身は狗邪
(くや、伽邪・加羅)で、鉄を産出し紀元前100年頃には対馬・壱岐、北九州の奴国や周辺国と交易を行っていた。
240年頃、十二ヵ国が分立していたが、倭国はそのうち六ヶ国程度を治めていたようだ。
百済や新羅が登場するのは346,356年のこと。

第19台高句麗王、広開土王(在位492-413)の生涯を刻んだ碑「広開土王碑」
(写真:中国吉林省)にも「任那」の国名があり、倭軍と任那による新羅への侵攻、倭軍と百済軍による平壌攻略のことが刻まれている。

 ところで、前方後円墳は任那日本政府存在の傍証となっているが、それを否定するためにか円墳に改築された「松鶴古墳」の元の姿が、徳島出身の鳥居龍蔵が1914年に撮影した写真が発見されたのがきっかけで、前方後円墳であったことが確認されたと・・。

 (大平 裕著『「任那」から読み解く古代史』参照)




「若杉山遺跡」

033 21日、文化審議会が阿南市水井(すいい)町の若杉山遺跡を国史跡「若杉山辰砂採掘遺跡」として答申したと。

若杉山遺跡」、「辰砂」と言っても「三好長慶」以上に知名度は低いのでは・・。

img_0那賀川中流域にある支流・若杉谷川の西側の山腹に、国内最古級の弥生時代後期
(1~3世紀)から古墳時代前期(4世紀後半)に「辰砂」(水銀の原料)を採掘していて、40を超える石杵や300点以上の石臼が発見されているほか、他には見られないほどの大きい坑道跡も確認されているとか。

 『魏志倭人伝』には、人々は「朱丹を以て身体に塗る」とともに、「出真珠青玉其山有丹」
(真珠・青玉を出だす。その山には丹あり)と記されている。

 古墳時代
(3世紀後半~6世紀)は「朱の時代」とも云われ、阿波徳島も朱産地の四大鉱床群に含まれていたが、6世紀の前半には急激に衰え、6世紀半ばには消え去った。

茶臼山古墳
(奈良県桜井市)では、石室に200キロを超える朱が使用されたとされ、前方後円墳の上には朱塗りの建物が築かれていたとも。

 また、邪馬台国
(2~3世紀)・ヤマト王権は朱の採掘と輸出で繁栄したという説もあるようだ。 (浦池明弘著『邪馬台国は「朱の王国」だった』参照)


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