2019年07月

名声からは逃げろ!

Zhuangzi 「名を矜(ほこ)るは、名を逃るるの趣あるに若(し)かず」(『菜根譚』)

名声を得て世に誇るよりも、実力があるのに敢えて無名のままくすぶっている者のほうが良いと。

 老子、荘子とともに「三子」に並び称せられる列子のもとには、教えを乞う人々が大勢集まって来ていた・・。

それを見て師匠の伯昏瞀人は、「巧者は労して智者は憂う。無能なる者は求むる所無く、飽食して遨遊(ごうゆう)す」。

・・技のある者は仕事を任されて苦労するし、知恵のある者はいらないものにまで思い悩む。 一方、無能な者には誰も求めないから、満ち足りて様子で自分の好きなことをしていいられる。

このように、人よりちょっと優れていると人に求められてひっきりなしに仕事がくる。
期待され後戻りすることも難しくなるから、「名声からは逃げろ!」と・・。

 荘子(BC369頃-286頃:写真)にも次のようなエピソードが、
あるとき、荘子が池で釣りをしていえると国王の使いが訪ねて来て、国王が荘子を宰相にしたいと告げる。

荘子曰く、「尊崇されて飼い殺しにされるより、この池に生きる泥亀のように世俗にまみれている方がいい」と云ったと

凡人への慰めの言葉として覚えておこう・・。  (大野出編著『図解雑学 菜根譚』参照)

ノウゼンカヅラ

nouzen 「凌霄(のうぜん)の 花に蝉鳴く 真昼哉」(子規)

この時季、近所でも高いところまで花をつけたノウゼンカヅラが見られる。

「凌霄」は中国名で「ショウリョウ」。
「霄」は大空の意味だと。
英語名はTrumpet vine
(つる)またはTrumpet creeper(這うもの)で、花言葉はファンファーレを高々に奏でるトランペットのイメージからか、「名声」・「名誉」だそうだ。

 「得失は一朝にして、栄辱は千載なり」(『後漢書』)
・・利益を得るにしても、得失を被るにしても、それは一時的なもの。しかし名誉を得たり恥辱を受けたりすることは、千年の後までも残ると。

千年先まで残ると考えたかどうかは知らないが、七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』(1188)がある。

Taira-no-Tadanori 都落ちした平忠度
(1144-84 清盛の四弟)が撰者の藤原俊成を尋ね、百首もの自作の歌を認めた巻物を渡し、一首でも取り上げてくれることを望んだ。

俊成は、優れた歌が何首もあったが、平氏が朝敵となっていたこともあり、「読み人知らず」として一首取り上げた。

「さざなみや 志賀の都は あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」

 「一ノ谷」の西の陣を任されていた忠度は、源氏の兵に取り囲まれ、名を問われても名乗らなかったが、お歯黒をしていたことから平家の公達に違いないと追い詰められて首を刎ねられた。

(えびら:矢を入れる筒)に結び付けられていた文を見ると、歌が書きつけられていた。
「ゆきくれて 木のしたかげを やどとせば 花やこよひの 主(あるじ)ならまし」(忠度)

と書いてあったので薩摩守忠度と分かったと・・。 (「中国名句名言の事典」(小学館)、青野敬介著「一日で読める平家物語」参照)

img041 各地で「梅雨明け」が発表され、いよいよ夏本番だ。

ところで、「木」偏に「夏」で榎・エノキ。

近くの庚申塚にもエノキの老木がある。
子どもの頃には、そこでよく遊び、エノミ
(榎の実)もよく食べたものだ・・。

榎は、よく根を張ることから神社仏閣などに植えられ、江戸時代の”一里塚”には多く用いられたと。
それには、徳川家康が「余
(よ)の木(松以外の木)を植えよ」との指示を「エノキ」と間違えたとの余談も。

 また、「縁
(えん)」にも通じることから「縁結び」、「縁切り」にまつわる伝承がある。

中山道六十九次のひとつ板橋宿は「江戸四宿」に数えられ、ここにも榎の大木があり枝が街道を覆うほど茂っていた。

この榎は「縁切り榎」と呼ばれ。嫁入り行列がこの木の下を通ると必ず不縁となると云われ、縁切りを望むものは榎に触ったり、樹皮を茶に混ぜて飲むと願いが叶うと信じられたと。

 文久元年(1861)、徳川将軍家へ降嫁する皇女和宮の一行は、板橋本陣にはいるときここを避けて通ったという。

現在の榎は三代目で、元あった場所の反対側に移動しているが、今でも「縁切り信仰」は残っているようだ。
 (平川陽一著「本当は怖い!日本のしきたり」参照)

筒井順慶の妻

Tutuijk 松永久秀と大和、興福寺を話題にすれば筒井順慶の名が浮かぶ。

順慶(1549-84)は興福寺の衆徒の代表格で、大和に進出した久秀と攻防を繰り返すが、元亀2年(1571)6月将軍・足利義昭が九条家の娘を養女として順慶に嫁がせたことで、久秀は義昭政権から離脱する。

これには、久秀が義昭方であった畠山秋高
(昭高とも。河内守護・高政の弟)の家臣・安見直政を多聞山城で殺害し、居城・交野城(私部城)を攻めたことが背景にあった。

 このことだけでなく、順慶の婚姻については彼の人生を象徴するかのよう。

順慶は、僅か1才のとき父・順昭を失っており(28才)、一族である福住宗職の後見をうけていた。

ところが、宗職をはじめとする興福寺の寺門や衆中の意向を尊重すると勢力と、河内勢力に結びつこうとする叔父・筒井順政の派閥に分裂するようになり、弘治3年('57)12月、順慶は安見宗房の拠る飯盛城
(大阪府大東市)に入った。

宗房は、守護・畠山高政と対立し、河内守護代の遊佐信教(1548-?)が幼少であったことから権力を掌握、河内の最有力者となっていた。

そして永禄元年('58)11月、順慶は宗房の意向により遊佐長教(1491-1551)の娘のもとに婿入りしたという。
(三好長慶が天文17年('48)5月頃に再婚したのも遊佐長教の娘であり、既に長教は亡く年齢的にも首を傾げるが・・。)

 次に、信長が将軍足利義昭を追放し、畿内の三好勢力も一掃した翌天正2年('74)、順慶は信長に君従するようになり、全国各地で繰り広げられている戦地に駆り出された。

そして同3年('75)2月、順慶は信長の娘もしくは妹と結婚した。

これには徳川家康の妹(未亡人)で信長の養女として嫁がせたとの二次史料があり、このことから有名な「本能寺の変」('82)の際の、徳川家康が「伊賀越え」で脱出した一件には、順慶の手助けで大和と伊勢をつなぐ高見峠(東吉野村・三重県松阪市)を越えて帰国したとの説(一次史料)があり、明智光秀とは当初から距離を置いていたとも。

 順慶は、秀吉の元でも各地を転戦したあげく、天正12年('84)8月11日病を患い亡くなった。享年36才だった。
 (金松誠著「筒井順慶」参照)

久秀と興福寺

62 永禄3年(1560)、大和に再進出した松永久秀は、信貴山城に入るとともに、翌年には多聞山城の築城に取り掛かった。

多聞山城は、大和を支配する興福寺など、大和盆地を見下ろせる北端の眉間山に築城、北方の守護神・多聞天(毘沙門天)から名付け、久秀は大和の守護者であると自任したと。

余談だが、興福寺の塔頭に「多聞院」があり、院主・英俊(1518-96)が記した『多聞院日記』は、当時を記録した一級史料として知られる。

 2018年10月、興福寺中金堂が301年ぶりに再建された。
中金堂は、都が奈良に移ったとき(710)、藤原不比等により最初に建てられた金堂。

興福寺は、平重盛による「南都焼き討ち」(1180)や、久秀と三好三人衆との「東大寺大仏殿の戦い」(1567)での焼失後再建されていたが、享保2年(1717)1月4日講堂から出火し、再び中金堂をはじめ伽藍の大半を焼失させた。

興福寺は藤原氏の氏寺であるが、この頃には藤原氏一族にもそんな財力がなく、民間からの浄財そ募る勧進で「西国三十三観音霊場」となっていた南円堂は再建(1797)されたが、中金堂は長く再建されることはなかった。

 文政2年(1819)、堺の豪商・京屋市左衛門の寄進によって再建されたが、それは焼失前の半分の規模で、仮堂的な建物だった。
(のちに、北の講堂跡に移され、2000年老朽化のため取り壊された)   (天野忠幸著「松永久秀と下剋上」、「歴史REAL 興福寺」洋泉社MOOK 参照)
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