近江と云えば、三好氏と何度も争った六角氏の領国。
鎌倉時代、阿波守護となった佐々木経高の長兄・定綱の孫・泰綱を祖とする。
戦国時代、六角定頼のとき近江一帯に大勢力を築き最盛期で、伊賀や伊勢の一部まで影響力を及ぼしていたが、跡を継いだ義賢(承禎)になると領内に侵攻する浅井長政に敗北(1560)するなど、陰りを見せはじめた。
特に、嫡男・義弼(よしすけ、義治)は重臣・後藤賢豊父子を殺害する「観音寺騒動」('63)を起こしたことで家中を混乱させ、屈辱的な「六角式目」('67 ※)への署名を余儀なくされ弱体化した・・。
実は、永禄3年('60)頃には親子の中は不和となっていたばかりでなく、義弼~賢永の兄弟間でも良くなかったと。
承禎(’58年頃に出家)は、朝倉氏の娘との縁談を考えていたが、義弼(当時17才)は相談もなく斎藤義龍の女(道三の孫)との縁談をまとめてしまっていた。
勝手な行動に激怒して叱責すると、義弼は逆ギレして城を飛び出し永源寺に籠ってしまった。(この頃、浅井長政が六角氏から離反)
ところで、六角氏と三好氏は天文21年('52)の和睦以来、何度かの事件が起きたが、特に衝突することもなく比較的良好な関係にあった。
永禄3年('60)8月には、長慶が将軍相伴衆となったことについて承禎から祝ったことに、長慶から礼状が出されているので、この頃までは良好だった。
この平穏が破られたのは、同4年('61)5月のこと。
これまで反長慶の旗頭として争ってきた細川晴元は、永禄元年('58)将軍足利義輝と長慶が義賢(承禎)の仲介で和睦して入京したが、近江・坂本に留まっていた。(晴元の継室は義賢女)
しかし、長慶は晴元が承禎に利用されるのを防ぐため、晴元を慫慂して和睦。
晴元は十年ぶりに嫡子・聡明丸(長慶の元で元服して昭元)に会うことができたが、出家して摂津富田の普門寺に入った。(隠居料として富田庄を与えられる。同6年('63)死亡)
このことが、六角氏を動かす原因となった。
承禎の元には晴元の次男・晴之がおり、長慶が擁する昭元が京兆家を継ぐことになれば、微妙な勢力均衡が崩れることを恐れた承禎は、7月28日総勢2万余騎で京都に進軍し将軍山城に入った。
そして、河内の畠山高政と結び長慶を挟撃することとし、ほぼ同時期に高政は重臣安見直政とともに岸和田の三好勢を攻撃した。
このため、洛中はがら空きとなったが、六角勢は進駐することもせず戦闘らしい戦闘もなかった。
四ヶ月の間は「矢軍計(やいくさばかり)」の状態だったが、11月24日松永久秀・三好義興軍が攻め寄せ神楽岡で激突した。
六角氏と三好氏が正面から戦ったのはこの時が初めてのことだった。(この時の「将軍地蔵山の戦い」で細川晴之は討ち死にした。)
永禄5年('62)3月5日、「久米田の戦い」(岸和田市)で三好実休が討ち死にしたが、5月20日には「教興寺の戦い」(八尾市)で畠山氏・根来寺軍を打ち破り、高政をが大和に退かせた。
六角氏は敗北した訳でもないが、幕政を握ろうという意思も見られず、6月2日には京都を明け渡して坂本に帰国して行った。
そして翌6年('63)10月1日、「観音寺騒動」が起きるのである・・。
※「六角式目」とは、永禄10年('67)4月家臣団が起草して承禎・義弼に遵守を求め起草文(承諾書)を交わした、67ヵ条にわたる当主=家臣団、家臣団同士の関係、在地支配などの取り決め。
(村井祐樹著「六角定頼」 参照)
鎌倉時代、阿波守護となった佐々木経高の長兄・定綱の孫・泰綱を祖とする。
戦国時代、六角定頼のとき近江一帯に大勢力を築き最盛期で、伊賀や伊勢の一部まで影響力を及ぼしていたが、跡を継いだ義賢(承禎)になると領内に侵攻する浅井長政に敗北(1560)するなど、陰りを見せはじめた。
特に、嫡男・義弼(よしすけ、義治)は重臣・後藤賢豊父子を殺害する「観音寺騒動」('63)を起こしたことで家中を混乱させ、屈辱的な「六角式目」('67 ※)への署名を余儀なくされ弱体化した・・。
実は、永禄3年('60)頃には親子の中は不和となっていたばかりでなく、義弼~賢永の兄弟間でも良くなかったと。
承禎(’58年頃に出家)は、朝倉氏の娘との縁談を考えていたが、義弼(当時17才)は相談もなく斎藤義龍の女(道三の孫)との縁談をまとめてしまっていた。
勝手な行動に激怒して叱責すると、義弼は逆ギレして城を飛び出し永源寺に籠ってしまった。(この頃、浅井長政が六角氏から離反)
ところで、六角氏と三好氏は天文21年('52)の和睦以来、何度かの事件が起きたが、特に衝突することもなく比較的良好な関係にあった。
永禄3年('60)8月には、長慶が将軍相伴衆となったことについて承禎から祝ったことに、長慶から礼状が出されているので、この頃までは良好だった。
この平穏が破られたのは、同4年('61)5月のこと。
これまで反長慶の旗頭として争ってきた細川晴元は、永禄元年('58)将軍足利義輝と長慶が義賢(承禎)の仲介で和睦して入京したが、近江・坂本に留まっていた。(晴元の継室は義賢女)
しかし、長慶は晴元が承禎に利用されるのを防ぐため、晴元を慫慂して和睦。
晴元は十年ぶりに嫡子・聡明丸(長慶の元で元服して昭元)に会うことができたが、出家して摂津富田の普門寺に入った。(隠居料として富田庄を与えられる。同6年('63)死亡)
このことが、六角氏を動かす原因となった。
承禎の元には晴元の次男・晴之がおり、長慶が擁する昭元が京兆家を継ぐことになれば、微妙な勢力均衡が崩れることを恐れた承禎は、7月28日総勢2万余騎で京都に進軍し将軍山城に入った。
そして、河内の畠山高政と結び長慶を挟撃することとし、ほぼ同時期に高政は重臣安見直政とともに岸和田の三好勢を攻撃した。
このため、洛中はがら空きとなったが、六角勢は進駐することもせず戦闘らしい戦闘もなかった。
四ヶ月の間は「矢軍計(やいくさばかり)」の状態だったが、11月24日松永久秀・三好義興軍が攻め寄せ神楽岡で激突した。
六角氏と三好氏が正面から戦ったのはこの時が初めてのことだった。(この時の「将軍地蔵山の戦い」で細川晴之は討ち死にした。)
永禄5年('62)3月5日、「久米田の戦い」(岸和田市)で三好実休が討ち死にしたが、5月20日には「教興寺の戦い」(八尾市)で畠山氏・根来寺軍を打ち破り、高政をが大和に退かせた。
六角氏は敗北した訳でもないが、幕政を握ろうという意思も見られず、6月2日には京都を明け渡して坂本に帰国して行った。
そして翌6年('63)10月1日、「観音寺騒動」が起きるのである・・。
※「六角式目」とは、永禄10年('67)4月家臣団が起草して承禎・義弼に遵守を求め起草文(承諾書)を交わした、67ヵ条にわたる当主=家臣団、家臣団同士の関係、在地支配などの取り決め。
(村井祐樹著「六角定頼」 参照)