2019年08月

六角氏

Rokkaku_Shōtei 近江と云えば、三好氏と何度も争った六角氏の領国。

鎌倉時代、阿波守護となった佐々木経高の長兄・定綱の孫・泰綱を祖とする。

 戦国時代、六角定頼のとき近江一帯に大勢力を築き最盛期で、伊賀や伊勢の一部まで影響力を及ぼしていたが、跡を継いだ義賢(承禎)になると領内に侵攻する浅井長政に敗北(1560)するなど、陰りを見せはじめた。

特に、嫡男・義弼
(よしすけ、義治)は重臣・後藤賢豊父子を殺害する「観音寺騒動」('63)を起こしたことで家中を混乱させ、屈辱的な「六角式目」('67 ※)への署名を余儀なくされ弱体化した・・。

 実は、永禄3年('60)頃には親子の中は不和となっていたばかりでなく、義弼~賢永の兄弟間でも良くなかったと。

承禎
(’58年頃に出家)は、朝倉氏の娘との縁談を考えていたが、義弼(当時17才)は相談もなく斎藤義龍の女(道三の孫)との縁談をまとめてしまっていた。
勝手な行動に激怒して叱責すると、義弼は逆ギレして城を飛び出し永源寺に籠ってしまった。
(この頃、浅井長政が六角氏から離反)

 ところで、六角氏と三好氏は天文21年('52)の和睦以来、何度かの事件が起きたが、特に衝突することもなく比較的良好な関係にあった。
永禄3年('60)8月には、長慶が将軍相伴衆となったことについて承禎から祝ったことに、長慶から礼状が出されているので、この頃までは良好だった。

 この平穏が破られたのは、同4年('61)5月のこと。
これまで反長慶の旗頭として争ってきた細川晴元は、永禄元年('58)将軍足利義輝と長慶が義賢(承禎)の仲介で和睦して入京したが、近江・坂本に留まっていた。(晴元の継室は義賢女)

しかし、長慶は晴元が承禎に利用されるのを防ぐため、晴元を慫慂して和睦。
晴元は十年ぶりに嫡子・聡明丸(長慶の元で元服して昭元)に会うことができたが、出家して摂津富田の普門寺に入った。(隠居料として富田庄を与えられる。同6年('63)死亡)

 このことが、六角氏を動かす原因となった。
承禎の元には晴元の次男・晴之がおり、長慶が擁する昭元が京兆家を継ぐことになれば、微妙な勢力均衡が崩れることを恐れた承禎は、7月28日総勢2万余騎で京都に進軍し将軍山城に入った。

そして、河内の畠山高政と結び長慶を挟撃することとし、ほぼ同時期に高政は重臣安見直政とともに岸和田の三好勢を攻撃した。

このため、洛中はがら空きとなったが、六角勢は進駐することもせず戦闘らしい戦闘もなかった。

四ヶ月の間は「矢軍計(やいくさばかり)」の状態だったが、11月24日松永久秀・三好義興軍が攻め寄せ神楽岡で激突した。

六角氏と三好氏が正面から戦ったのはこの時が初めてのことだった。
(この時の「将軍地蔵山の戦い」で細川晴之は討ち死にした。)

 永禄5年('62)3月5日、「久米田の戦い」(岸和田市)で三好実休が討ち死にしたが、5月20日には「教興寺の戦い」(八尾市)で畠山氏・根来寺軍を打ち破り、高政をが大和に退かせた。

六角氏は敗北した訳でもないが、幕政を握ろうという意思も見られず、6月2日には京都を明け渡して坂本に帰国して行った。
そして翌6年('63)10月1日、「観音寺騒動」が起きるのである・・。

 ※「六角式目」とは、永禄10年('67)4月家臣団が起草して承禎・義弼に遵守を求め起草文(承諾書)を交わした、67ヵ条にわたる当主=家臣団、家臣団同士の関係、在地支配などの取り決め。
 (村井祐樹著「六角定頼」 参照)








「石山秋月」

Hiroshige 秋月と云えば、歌川広重の『近江八景』の中に「石山秋月」がある。

そして、紫式部が『源氏物語』の着想したは石山寺に参籠したときで、琵琶湖に映る中秋の名月の美しさに感動して「須磨明石」の両巻を書きはじめ『源氏物語』が出来上がったという説がある。

Murasaki_Shikibu しかし、実際は石山寺から琵琶湖を望むことはできない。

これは14世紀に書かれた注釈書『河海抄』の「・・折しも八月十五日夜の月湖水にうつりて心の澄み渡るままに物語の風情空に浮かびたるを、忘れぬさきにとて仏前の大般若の料紙を本尊に申し受けて、まづ須磨明石の両巻を書き留めけり。」との記述に基づくものだと。

 「おはすべき所
(光源氏がお住まいになる宿)は、行平の中納言の、藻塩垂れつつわびける家居近きわたりなりけり。」(第十二帖「須磨」第一段)

「わくらばに 問ふ人あらば 須磨の浦に 藻塩たれつつ わぶと答へよ」(在原行平)

この行平の侘び住まいは、現在でも「松風村雨堂」として祀られている。
そしてその東に月見山があり、行平が月を愛でたと・・。

 「明石」では、明石入道は八月十三日の月の美しい夜に源氏を明石女君のいる岡辺の家に招き入れる。

三味堂の鐘と松風が響きあい、岩には松が根を張り、品の良い木戸からは十三夜の月がのぞいている・・。

源氏は悲劇の中にありながら、明石の君との間に唯一の女子
(後の明石の中宮)をもうけ、後に入内して五人の皇子・皇女が宮中に君臨する栄耀の基礎となる。

 また、明石は源氏流謫のモデルのひとり菅原道真の故地でもある。
道真が大宰府に下向のさいに立ち寄った駅跡には「菅公旅次遺跡」石碑や、駅長が祀ったという「菅公腰掛石」がある。 「一栄一落 是レ春秋」  (小山利彦著「源氏物語と風土」参照)

「月下氷人」

24 最近の若者は、なかなか結婚しない。

また、「仲人」をする人がいなくなり、結婚をしたくない者、恋愛ができない者が取り残される。

月下氷人」とは媒酌人をつとめること。 縁結びの神「月下老」と「氷人」が結びついた言葉。

 唐の時代。韋固
(いこ)という独身の男が宋城へ旅した時のこと。
(ふくろ)に寄りかかって座り、月の光で書物を読んでいる老人がいた。

韋固が、「」天下の婚姻のことじゃ」と尋ねると、
「では、その嚢の赤い縄は何ですか」
「この赤い縄で夫婦の足を繋ぐのじゃ。 そうすれば、どんなに遠く離れていても、あるいは仇同士の間柄でも結ばれる。 そなたの嫁は、この北で野菜を売っている陳ばあさんの娘じゃよ」と答えた。

 それから14年後、韋固は相州で官吏になっていたが、そこの長官である王泰の娘と婚約し結婚した。
そしてある日、「わたしは長官の養女です。父は宋城の役人でしたが、まだ赤ん坊のとき亡くなって、私を乳母が野菜を売って養ってくれました。」と打ち明けた。
(『続幽怪録』)

 一方、令孤策という男がこんな夢を見た。
氷の上に立っていると、氷の下から声が聞こえて語り合ったという。
その話を聞いて索紞(さくたん)という夢占いに長じた男がいった。

「氷上は陽、氷の下は陰、それは陰陽のこと。 氷の上にあって氷の下の人と語るとは媒介のこと。あんたはきっと媒酌をすることになるだろう。それも氷の解けた頃に・・」

すると、ときの太守・田豹が、息子と張公の娘との縁談の媒酌を頼んできて、氷の解けた春のなかばに婚礼を行うことになったという。(『晋書芸術伝』)

 つまりは、「月下」だけ、「氷人」だけではだめで、二つの話が合わさって「月下氷人」とならなければ仲人はつとまらぬと。 

hi019a 今では、ほとんど聞かれない言葉だが、京都・八坂神社や北野天満宮・誓願寺、そして湯島天神にも「奇縁氷人石」、「月下氷人石」、「迷子しるべ石」として残っている。

江戸時代、迷子となった子どもの名前を石碑の片側に貼ると、反対側にその行方を知らす情報を貼るという習俗があった。

 (飯塚 朗著「中国故事」 参照)

「秋月」

Ogura_Lake 今回の長雨は武雄市や小城市など有明海の北部地方に大きな被害を与えている。

「有明」とは、まだ月が空に有るのに明けることをいう。

 豊臣秀吉が伏見城を建てた「指月
(京都市伏見区)は、平安時代より宇治川や巨椋池を一望できる観月の名所で、観月橋は九州・豊後の大友氏が工事を行ったことから「豊後橋」と云われていた。

江戸時代、伏見城が破却されて一帯に桃の木が植えられたことから「桃山」と称され、「桃山時代」の語源となった。

indexb 月と云えば秋の月を指すが、徳島には室町時代に阿波国守護となった細川氏が守護所を置いたのが「秋月(板野郡土成町)

建武3年(1336)2月、足利尊氏が九州に落ちのびる途中、播磨・室津で軍議をひらき四国に細川氏一族9名を配置した。
(和氏・頼春・師氏兄弟3人、従弟の顕氏・定禅・皇海・直俊・政氏・繁氏)

幕府が開設されると細川和氏に守護の地位が与えられ、頼春・師氏とともに足利氏の所領であった秋月荘に入った。

 余談ながら、日本は古くは「豊秋津島」と云われたが、「秋津」はトンボのこと。

奈良から平安期に「秋月郷」があり、現在の土成町秋月から市場町切幡、伊月にかけての一帯に比定され、小高い扇状地が広がっていて、トンボが羽を広げたような地形であったことが秋月の由来ではと。


 建武3年(1336)5月、和氏は九州から東進して来た尊氏に合流し、四国細川勢五千余騎を率いて摂津・湊川で楠木正成との合戦に正成を自害させ、直義とともに入京、11月7日に室町幕府が開設された。

和氏のあと弟・頼春に阿波国を譲られた。
康永元年('42)5月、伊予に新田義貞の弟・脇屋義助が南朝指揮者として入国して来たので、その掃討にために派遣されている。(その後間もなく脇屋義助は死亡した)

その後、頼春は讃岐守に任じられるとともに侍所・引付頭人にも任じられ幕政に参加していたが、観応3年('52)京都に乱入してきた楠木正儀・北畠顕能らとの合戦で討死した。

守護職を継いだ子・頼之は、貞治6年('67)11月管領となり、10才であった将軍足利義満を補佐するとともに、守護職を弟・頼有に譲った。

その後は、頼有が弟・詮春の子・義之に守護職を譲り、以後はその子孫である満久・持常・成之・義春・之持・持隆・真之と続いた・・。

 ところで、勝瑞城については築城時期が明らかでなく、秋月から移った時期も定かでないのだと。
 (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」、荻澤明雄著「続・徳島県地名考」、「吉野川事典」㈶とくしま地域政策研究所編 参照)

「実盛虫」

01 秋雨前線が停滞して梅雨を思わせるような長雨が続いており、九州には大雨をもたらすとともに、収穫期を迎えた地元でも農家を悩ませている。

写真は、最近よく話題になる「秋の七草」フジバカマに海を越えてやって来るアサギマダラ。
我が家でも初めてフジバカマを植えてみたが、まだアサギマダラはやって来ない。

 稲に大きな被害をもたらすウンカ(浮塵子)もジェット気流に乗ってベトナムや中国からやって来るのだと。
雲霞
(うんか)のごとく大群をなして飛んで来るのでこの名があるとも。

「むざんやな 甲(かぶと)の下の きりぎりす」(芭蕉)

齋藤實盛 斎藤実盛(1111-83)は、木曽義仲追討のため平維盛とともに北陸に出陣したが、加賀国の「篠原の合戦」で、義仲軍の手塚光盛に討たれた。

この時、馬が稲の株につまずいて落馬したところを討ち取られたので、実盛が害虫となって稲に害をもたらすとの伝承から、ウンカは「実盛虫」とも呼ばれる。

 ところで、農家も高齢化の進行等により耕作放棄地が増えているが、特に山間部の棚田は手間がかかることから一層荒廃化が進んでいる。

この棚田が増えたのは、戦国時代から江戸時代にかけてのことだと。

三好長慶が居城とした越水城や芥川山城・飯盛山城も”山城”だったが、山城を築くための土木技術の発達により、それまで田んぼをつくることができなかった山間部にも水田を拓くことが可能となった。

「堀」をつくる技術により水路を引くことができ、「土塁」を築く技術で畦をつくり、「石垣」を組む技術を用いてより強固な田んぼを作ることができるようになった。
また、河川には土手を作って洪水を防ぎ、遊水地帯を水田に変えたり、人工河川をつくって水のない場所も新田を拓くことができた。

戦国時代も終わり頃になると、国境も定まって来て領地を増やすことが難しくなり、棚田を拓くことで石高を増やしたのだと。
 (丸山宗利著「昆虫はすごい」、稲垣栄洋著「イネという不思議な植物」参照)
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