2019年09月

「和泉屋形」

細川頼之 三好長慶の命により、十河一存は弘治3年(1557)までには岸和田城に入り和泉の支配に当たった。

和泉は地元・山川町と無縁ではなく、現井上城跡は和泉上守護家・細川氏の「下屋敷」、「泉館」・「和泉屋形」であった。

 建武3年(
延元元年・1336)2月、摂津・室津で足利尊氏と別れた細川和氏・頼春・師氏3兄弟は、従兄弟の顕氏・定禅・皇海ら9人と四国に渡り、和氏ら3兄弟は阿波に入った。

この頼春の子・頼之
(写真)が細川家嫡流・京兆家で、詮春が阿波細川家、頼有が和泉上守護家始祖である。

 細川頼有(1332-1391)は、父とともに秋月に居住していたが、兄・頼之とともに阿波の南朝方・種野山の山岳武士攻略のために泉館の地に進出して来たものだろうと。

応安6年(1373)、阿波守護に任じられ、種野山の木屋平氏を支配下におき、嘉慶2年('88)には川田八幡宮を再建している。
この頃、秋月城を阿波守護となった甥・義之
(詮春('67死)の子)に譲って泉館に閑居していたようだ。(明徳元年('90)家督を次男・頼長に譲る)

 永正4年(1507)、管領細川政元が暗殺されると(「永正の錯乱」)、細川京兆家は分裂して争い(「両細川の乱」)、和泉上守護家当主であった細川元常(1482-1554)は細川澄元(阿波細川家出身)を擁して細川高国との戦いに敗れ守護職を失った。
同8年('11)、「船岡山の合戦」でも敗北して阿波に逃れている。

しかし、「和泉屋形」は既に三好氏の支配下にあり、元常は城外に蟄居させられたと。


 天文17年(1548)には、三好長慶が細川氏綱と結んで主君・細川晴元に対して挙兵すると、和泉国内では守護家と守護代家の対立して自立化し、松浦氏は長慶と同盟した。

元常は晴元とともに氏綱・長慶に対抗したが「江口の戦い」('49)に敗れ、将軍足利義輝に随行して近江に逃れ領地も奪われた。

これにより細川氏による和泉上守護家による支配は終わった。  (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」他)

『アビー・ロード』50周年

79 9月26日は、『アビー・ロード』(Beatles)発売50周年とのニュース。

それは本国・イギリスでのことで、日本で発売されたのは1969年10月21日。

お馴染みのポールが裸足で横断歩道を渡る写真は、8月8日の暑い日ポールはスタジオにスーツにサンダル姿で来ていたが、急にアルバムジャケト写真を撮ろうと言い出し、EMIビルの前の横断歩道で撮った中の一枚。

8月25日にレコーディングが終了した『アビー・ロード』がビートルズの事実上最後のアルバムとされていた。

しかし、’70年5月に発売された『レット・イット・ビー』には、
’69年1月に”ゲットバック・セッション”として不協和音の中で録音されたものに、’70年1月に追加録音されていることが判明し、現在ではやはり『レット・イット・ビー』が最後のアルバムだったと見直されていると。

 特に、ロックオペラ調と称せられるB面のメドレー10曲は、『サージェントペパー・・』('67)とともに最高傑作とされる。

しかし、その実はここ2年間ほどはともに集まって演奏することはなく、”最後”のアルバムを制作するというので、それぞれが持ち寄った未完成作品などを繋げたもの。

リンゴは、「メチャクチャなものを灰の中から蘇らせた」といい、ジョンも「いじくりまわして何となく意味が通るようなものにした」というから、すごい才能というか、「眠っていた宝物」というべきか・・。

 そう言えば、えば、B面8曲目に「Golden Slumber 黄金のうたた寝」という曲がある。

「かってはあった 家へ帰る道が  
 かってはあった 生まれた家への道が
 眠れプリティ・ダーリン 泣かずに ぼくが子守歌を歌おう
 黄金のうたた寝が きみの瞼に重く 
 目覚めれば微笑みが 迎えてくれる・・」
(片岡義男訳)   
  (恩蔵茂著「ビートルズ日本盤よ、永遠に」、「THE BEATLES ANTOLOJY」リットー・ミュージック 参照)

「社日」騒動

PA0_0035 秋は祭りの季節でもある。

最近では行われることが少なくなった「社日」は、「秋分の日」に近い「戊
(つちのえ)」の日に、産土神に感謝する祭りであるが、今年はひと悶着あった。

今年の「秋分の日」9月23日は「癸
(みずのと)」で、近い戊の日は18日と28日があり、そのどちらで行うかで論争になったのである。

調べてみると、①秋分になった瞬間が午前の場合は前の戊の日とし、午後の場合は後の戊の日とする場合と、②前の日とする、とされているようだ。

「秋分となった瞬間」とは、太陽が「秋分点」を通過する瞬間のことだろう。
「秋分点」は、黄道と天の赤道が交差する2つの交点のうち、黄道(太陽)が北から南に交わる点のこと。

 ところで、「春分の日」「秋分の日」には昼夜の長さが同じになるというが、実際は同じではない。

これは、①日の出入りは太陽の上辺で定義されるので、太陽の半径分だけ日の出は早く、日の入りは遅くなる。
(角度で15度、時間は約1分)

また、大気の影響で光が折り曲げられ、浮き上がって見える効果=大気差が考慮され2分強
(35度8分と仮定)だけ日の出は早く、日の入りは遅くなり、かつ日本付近では太陽が斜めに昇ることから合計約4分づつ日の出は早く、日の入りは遅くなる。

つまり、昼の長さは12時間+約4分
(日の出)+約4分(日の入り)で、12時間8分となり、夜はその分短くなる。 (片山真人著「暦の科学」参照)


そして誰もいなくなった

十河存保の墓 十河存保(1554-86)は三好実休(1527?-62)の次男。

永禄4年(1561)、岸和田城を本拠として和泉国を支配していた十河一存が不慮の死を遂げ、実休が跡を継いで河内高屋城に入った。

阿波三好家の当主は長治('53-76)が継いだので、当時まだ7才だった存保は、父・実休とともにしていたはず。

存保が十河家を継承したのは、元服する年頃の同8年('65)頃のこと。
(「三好本宗家」が滅亡した後の天正2年('74)8月には「三好姓」(三好孫六郎存康)に改姓している)

 堺で育ったと云うが、父・実休も永禄5年('62)3月「久米田の戦い」で討死し、代わって三好康長が高屋城に入ったが、和泉国では一存・実休を失って三好氏の後見を受けていた松浦氏(一存の次男・孫八郎=萬満が養子となっていた)の家中は分裂し、三好氏の支配は弱体化していた。

まだ10才に満たない存保は何処で誰が面倒をみたのだろうか?
実休は、法華宗頂妙寺第三世日珖に帰依しており、日珖の日記には存保と兄・長治の母が別に記されていることから、二人は異母兄弟だとも云われる。

ならば、その母も存保を連れて渡海し養育していたとも考えられ、実休が土地を寄進し開基となって日珖に妙国寺(堺市材木町)を建立しており、日珖は堺の豪商で会合衆でもある油屋常言の子でもあるので、協力していたこともあり得るのではと・・。

 天正6年('78)、兄・長治の自害により統治者を失っていた阿波に堺から下向したときも、既に高屋城の三好康長は信長に降り('75)、同時に十河氏の籠る新堀城も落城しており、松永久秀は前年('77)に信貴山城で自害していることから、畿内に頼るところはなかったはず。(松浦家に養子となっていた萬満は、天正3年('75)家臣に暗殺されている)

阿波に帰って長宗我部元親との戦いに敗れて讃岐の退去('82)し、その後秀吉の「四国征伐」('85)で「十河孫六郎」として仙石秀久に与力となったものの、天正14年('86)12月九州「戸次川の合戦」で戦死。三好氏も絶え、十河家も断絶した・・。 (写真は存保の墓。天野忠幸著「戦国期 三好政権の研究」他参照)

三好三人衆の行方

岩成友通 奇しくも足利義昭の挙兵によって、畿内に細々と息の根を留めていた三好本宗家当主・三好義継は、この機とばかりに信長方に攻められ、滅亡の憂き目に遭った。

では、反信長を貫いていた「三好三人衆」はどうだったのか。

 岩成友通(写真  後に長信と改名?)は、元亀3年('72)には調略により信長方に寝返っていたようで、山城国内に六ケ所の領地を与えられ山城郡代に任じられていだ。

しかし、翌年('73)の足利義昭の挙兵に応じて、坂東季秀
(三好長逸の家臣)や諏訪行成(三好長慶の家臣)らとともに淀城(京都市伏見区)に籠城していた。

8月2日、信長は秀吉と細川藤孝に淀城攻めを命じ、友通は季秀・行成が秀吉の調略による裏切りもあって討ち取られた。

 三人衆の筆頭格である三好長逸は、同年('73)2月三好義継・松永久秀とともに中島城(堀城とも。大阪市淀川区)を攻略して細川信良(昭元)を堺に退去させた以降、行方不明となっており、死亡したとされる。

残る三好宗渭(政勝・政生・下野守)も、信長が上洛('68.9)すると木津城(京都府木津川市)で抵抗するも空しく阿波に退去。その後の動向は定かでなく、永禄12年('69)5月に没したとされる。

跡を弟の一任斎為三が継いだが、元亀元年('70)香西元成とともに信長に降ったようだ。
(為三は後に徳川秀忠に仕え「関ケ原の戦い」では真田攻めに加わり、子孫は河内で二千石余りの所領を得て旗本として幕末まで生き延びている) (天野忠幸著「戦国期 三好政権の研究」他参照)

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