Negoroji 









 永禄5年(1562)3月5日三好豊前守”実休”義賢は、泉州久米田(現・岸和田市北額町満願寺辺り)根来衆の鉄砲に討たれ命を落とした。(37歳)

従臣の進言も聞かず、小高い岩の上に立って采配をふるっていたところを忍び寄った鉄砲隊の一斉射撃で胸に被弾。すかさず畠山軍の家臣により首をはねられた。

 「根来衆」は根来寺の僧兵。
根来寺は、その頃が最盛期で広さ36万坪、寺領72万石、堂塔450余を誇り、一万人の僧兵「根来衆」を擁していたが、1185年豊臣秀吉の紀州征伐(「根来攻め」)でほとんどの堂塔が焼失し、江戸時代になって復興された。

1140年高野山中興の祖・覚鑁かくばん 興教大師 1095-1143)が、鳥羽上皇の厚い信任を受け、大伝法院と金剛峯寺の座主を兼ねたが、在地の僧や従来から金剛峯寺の座主となっていた東寺の反発に遭い、根来の地に移って開いた。

 そして、もうひとつ阿波との繋がりは、1114年初めて高野山に登った覚鑁が最初に出会ったのが阿波出身で、いわゆる「高野聖」の青連上人だった。 (神山町・吉祥院は青連上人が再建したと)
  (「覚鑁と真言密教」朝日新聞出版参照)