三好義賢 茶といえば長慶の弟・三好実休(1527?-62)は天下無双の名物「三日月の葉茶壺」のほか50種類もの名物を所有していた。

その実休(最近では「義賢」の名は疑問視されている)が戦死した「久米田の戦い」(1562:現岸和田市周辺)に何故根来衆が加わっていたのかという話。

 根来寺は、境内の広さは36万坪、寺領72万石、堂塔450余(室町末期)を誇る新義真言宗総本山で、僧兵「根来衆」を1万人も抱えていたという。(後に秀吉の「根来攻め」(1585)でほとんどの堂塔が焼失した)

実休は兄・長慶や十河一存が臨済宗大徳寺北派大林宗套や笑嶺宗訴に帰依したのとは異なり、法華宗頂妙寺第3世日珖に帰依し別邸を寄進するとともに、妙国寺を創建(土地を寄進)している。 
日珖は堺の豪商で茶人の油屋常言の子なので、実休は経済的支援を得ようと考えていたのだろうと。 (日珖上人は天正3年(1575)実休の子・長治の招きで阿波での真言宗との「宗論」に渡来している)
このようなことから畠山高政(紀伊・河内守護)とともに根来寺とも対立するようになっていた。

 昨日、11月28日は根来寺では「かくばん祭り」が行われた。
この「覚鑁(かくばん)」(1095-1143)は新義真言宗の開祖であり根来寺を興した。(ちなみに覚鑁が高野山で最初に仕えた人物は阿波出身の青連上人という高野聖)
「かくばん祭り」の呼び物は鉄砲隊。 根来寺には種子島に伝わったばかりの鉄砲(1543)が持ち込まれ鉄砲隊が組織されていた。

実休は「久米田の戦い」で、本陣が手薄になったときに後方から根来衆の鉄砲隊に撃たれ戦死したとされていたが、「流れ矢」、「矢」または自害したのではとの説もあるようだ。 
(天野忠幸著「三好長慶」参照)