6-1 元暦2年(1185)2月18日源義経は摂津国渡辺津(大阪市東区)から屋島の平氏討伐のため阿波に向けて出港した。

その前日の軍議で梶原景時が「逆櫓を付けてはどうか」と持ち出した。 逆櫓(さかろ)とは舟が後ろにも進めるように舟の先端にも櫓をつけること。
強い北風が吹き荒れていたので、いつでも撤退できるようにとの提案だった。

義経が「戦には一歩も引くまいとの気持ちが大事で、最初から撤退の準備をするなど」と言うと、
景時は「優れた大将軍というは、進むべき時には進み、退くべき時には退くものだ。ただ闇雲に攻めるのは猪武者というものだ」と反論して口論となり一触即発の事態となった・・。

その夜、義経はひそかに船出しようとしたものの船頭が渋るので、佐藤嗣信と伊勢義盛に命じて船頭を脅して、二百艘いた軍船のうち五艘150騎だけで出港。
通常3日かかるところをたったの三時(6時間)で渡り切り午前6時頃には阿波勝浦尼子ヶ浦に到着したと。
 
 この「逆櫓論争」が景時の反感を呼んだのか、「判官殿(義経)は功に誇って傲慢であり、武士たちは薄氷を踏む思いであります・・。」との義経を批判する手紙を頼朝に送ると頼朝は激怒。

これを知った義経は忠誠を誓った起請文を大江広元を通じて送ったが頼朝は取り合わず、義経が捕虜の平宗盛を護送して鎌倉に向かったものの鎌倉入りを許されなかった。 また、腰越(鎌倉市)から弁明の「腰越状」を広元に託したが、結局は京に追い返されてしまった。

9月2日梶原景季(景時の子:「宇治川の戦い」で名馬・”池月”佐々木高綱と先陣を争った)が義経に味方する源行家の追討指令を持って来たが、義経は体調不良を理由に断った(しばらく待ってくれとも)と知った頼朝は義経を討つことを決意する・・。