宇治川の先陣争い 寿永2年(1183)7月木曽義仲が入京した当時、義経といえば山本義経のことだった。

この、もうひとりの義経も新羅三郎・源義光の4代後裔で、山本山城(滋賀県長浜市湖北町山本)の城主。
以仁王の平家追討の令旨(1180)により旗を挙げた諸国の源氏に同調して、11月20日弟・柏木義兼ら近江源氏とともに兵を挙げた。
以仁王を討死させた平家の有力家人・藤原景家を討ち取り、仇を討った人物でもある。

12月2日、平知盛を大将軍とする追討使が派遣され山本山城が落城して逃れ、土肥実平の案内で頼朝に拝謁したと『吾妻鏡』には記されている。 この時、平泉から頼朝のいる黄瀬川宿駆けつけた(源)義経と顔を合わせたかどうかは定かでない。(義経と頼朝の対面は「富士川の合戦」(10/20)の翌日)

 寿永2年(1183)山本義経は頼朝の元を離れて義仲の軍勢に加わり、7月27日比叡山に逃れていた後白河法皇が都に戻る際には、子・錦部義高が警護し、義経は京を警備する武将のひとりに配置されている。

28日義仲が5万の軍勢を引き連れ入京した際には、山本義経は子・義高とともに都に入った。
しかし、義仲軍は乱暴狼藉を働き、次第に後白河法皇とも対立し、11月には法皇を幽閉して政権の掌握を図った。

年が明けて翌寿永3年(1184)1月20日、近江まで迫った義経・範頼軍との戦いとなったが、この頃には脱落者が続出、義仲の軍勢は千騎ほどに激減していたと。 
義経軍2万5千騎が宇治を突破し(「宇治川の先陣争い(写真)はこの時のこと)、100騎余りの義仲軍も奮戦するも敗れ、粟津に逃れたものの範頼の大軍に討たれた。

 この「宇治川の戦い」の際、山本義経の子・義弘は戦死し、義経は義高とともに行方不明となり、以後消息は不明とのこと・・。