高越寺山門 義経からの起請文、腰越状を頼朝に取り次いだ大江広元は地元・高越寺とわずかな繋がりがある。

以前にも記事にしたが、高越寺は鎌倉時代を通じて九条家に伝領され、地頭には中原親能(1148-1209)が補されている。

大江広元(1148-1225)の出自は諸説あるようだが、母の再婚相手・中原広季の元で養育されたと。(広季が実父とも)
親能は広季の子であるから、ふたりは義兄弟の関係にある。
広末が鎌倉幕府の公文所の別当となったのも、頼朝と親しかった親能の推挙によるものだと。

 頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものだといい、頼朝亡き後も後家・北条政子や執権・北条義時と協調して幕政にあたっている。

中原親能は、寿永2年(1183)10月頼朝に代わって義経とともに上洛したが、この頃は義経の名は京では知られておらず、親能が総大将だと思われていたと。

 室町時代となり細川氏が入国して地頭を追い、その管理職を奪って所領を自己の荘園とした。