imageIJM 高越寺領の地頭であった中原親能(1148-1209)と同時期のいたもう一人の中原氏中原兼遠(?-1181?)。

久寿2年(1155)源義賢は武蔵野国比企郡大蔵館で甥の”悪源太”義平(義賢の兄・義朝の長男、頼朝の兄)に討たれた。(「大蔵合戦」)
その際、義賢の遺児・駒王丸は斎藤実盛によって木曽の中原兼遠に預けられ養育されたのが後の木曽義仲である。

 義賢の死によって、母とともに京にいた義仲の唯一の兄・仲家は源頼政に引き取られて養子となっていた。
治承4年(1180)5月、以仁王と頼政による平家打倒の計画が露見し、17日嫡男・仲光とともに宇治平等院あたりで平家の追討軍に討たれて戦死したことで、「兄の無念を晴らしたい」との思いが義仲挙兵の要因だったとも。

義仲四天王の樋口兼光、今井兼平も兼遠の子。
寿永3年(1184)1月、頼朝の命で弟・範頼、義経が入京し、義仲はひとり北陸に落ち延びる手筈であったが、今井兼平が奮戦する琵琶湖のほとりの粟津に向かった。
命を落とすことを承知で最後の戦いにのぞんだが、このときには兼平、手塚別当とその嗣子・光盛そして巴御前の唯の四騎となっていたと・・。 最後は眉間に敵の矢を受け、それを見た兼平は太刀を口にくわえて馬から飛び降り自決した。

「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」


「情」を重んじて逆境に挑んだ義仲を慕う芭蕉が詠んだ句で、芭蕉は義仲寺に眠る義仲の墓の傍に葬られることを望んだ。

 ところで、義仲の妾(妻ではない。妻は藤原伊子)巴御前も兼遠の子で兼光・兼平の妹。
「色は白く髪長く、容顔まことに優れ、一人当千の兵(つわもの)なり」と『平家物語』に記され、粟津原から落ち延びたが捕らえられ、鎌倉に送られて和田義盛の妻となったと。
しかし、女武将・巴御前については脚色が加えられているようだ。
(「2015.7 歴史街道 木曽義仲」参照