ootu_0056_s 「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」(又玄)

義仲は死を覚悟で粟津に向かい、氷の張った深田に馬の脚をとられて兼平の方を振り返った時、顔面に矢をうけた。(何と射止めたのは前記事の中原親能との史料もあると) 

粟津ヶ原にある義仲寺(現・滋賀県大津市馬場:写真)の寺伝によれば、巴御前がこの地に草庵をむすび義仲を弔ったと云われ、「無名庵」と呼ばれていた。

 松尾芭蕉は、元禄2年(1689)8月21日に150日におよぶ「奥の細道」の旅を終えて大垣に到着し、25カ月ほど畿内に逗留して同4年(1691)9月28日江戸に帰った。

しかし、新しい芭蕉庵で2年暮らしたあと再び江戸を出発し、同7年(1694)5月28日ふるさと伊賀上野に入り、6月中旬から7月初めまで、無名庵を本拠にしている。

9月9日大坂に入った翌日の晩、芭蕉は悪寒・頭痛に襲われ、20日ごろには一時治まったものの、29日には床に伏すようになり、次第に容態は悪化。 そして、12日申の刻(午後4時頃)51歳の生涯を閉じた・・。

死後、去来・基角ら10人の弟子たちが芭蕉の「亡骸は木曽塚に送るべし」との遺言にしたがって遺骸を義仲寺に運び、14日に門人80名、会葬者300余人が参列して葬儀が営まれた。