矢止めの松 木曽義仲を射止めた矢は高越寺領の地頭だった中原親能の放ったものだったとも云われ、阿波とかすかな繋がりを見出したが、平家打倒の令旨を以仁王と結んで出した源三位・源頼政は讃岐と縁がある。

頼政(1104-1180)の若いころの経歴は定かでないようだが、讃岐に下向して多度津郡三井に住んでいたと地元は伝える。

 その善通寺市の筆の山に大百足が住んでいて人々を苦しめていたのを、頼政が退治に向かった。
しかし、弘田に生えていた松の木がジャマになって当たらなかったが、三本目にやっと命中して大百足は死んだ。

その史跡が「矢止めの松」として、頼政の屋敷跡は若宮神社として残っており、近くには頼政の子孫という大庄屋・須藤家がある。


「埋もれ木の 花咲くことも なかりしに みのなる果てぞ 哀れなりける」

 頼政に二条院讃岐という娘(二条天皇の女房)がいる。 百人一首にも登場し「沖の石の讃岐」との異名をとる。
歌才に優れ『詞花和歌集』以下勅撰和歌集に62首入集している頼政の薫陶を受けた女流歌人である。

「わが袖は 塩干に見えぬ 沖の石 人こそ知らね 乾く間もなし」

摂津源氏の末流・頼政も由緒では劣らない。
清盛の信頼も厚く、74才となって公卿に列する従三位への破格の昇進を受けたが、77才の高齢となっていたにもかかわらず叛旗をひるがえした・・。