平重衡 治承4年(1180)12月28日平重衡の南都焼き討ちにより、東大寺、興福寺などの堂塔伽藍は焼き尽くされた。

4月以仁王(後白河法皇の第3皇子)は源頼政のすすめによって平家打倒の令旨を発するがあえなく鎮圧され、6月清盛は福原への遷都を強行したが、その背景には南都を中心とする大寺院の影響力を弱めるねらいもあったようだ。

しかし、頼朝に続き、9月には義仲も挙兵し、10月19日「富士川の合戦」で水鳥の飛び立つ音を夜襲と勘違いして撤退するなどの醜態を見せると、園城寺や興福寺など寺社勢力も不穏な動きを見せ始め、清盛は11月23日京都に帰った。

12月になると園城寺を焼き払い、近江源氏・山本義経らを打ち破って近江を平定すると、次に背後の脅威を一掃するため畿内最大の反平氏勢力だった興福寺に狙いを定め重衡を大将軍に任じて4万の大軍を動員した・・。

『平家物語』では、明かりを点けるため民家に火を放ったところ、折からの風にあおられて延焼してしまい、重衡の思惑を超えたものだったとするが、大参事となり寺院勢力の平氏に対する敵意はこれまでになく燃え上がり、翌年2月4日清盛が熱病で急死したのも天罰が下ったに違いないと噂されたと。

 この重衡(清盛の五男)は、寿永3年(1184)2月「一ノ谷の合戦」で捕らえられ、翌4年(1185)6月22日東大寺の使者に引き渡されて23日木津川畔で斬首され奈良坂にある般若寺門前に梟首(さらし首)された。


「ささほろや 波ここもとを 打ちすぎて すまでのむこの 濁り酒なれ」

Shigehira神戸市須磨区にある「平重衡とらわれの松跡」は、捕らえられた重衡が近くにあった松に腰かけているところに、村人が濁り酒を差し出したところ、喜んでこの句を詠んだと。 (侍女となった千手の前については2013.6.7『千手』の記事あり)