jyupouhoui 細川・三好氏が勝瑞を選んだのは、当時は旧吉野川が阿波と畿内と結ぶ水・海運の中心地であるとともに、木津から渭山城(徳島城)を結ぶ讃岐街道の交差点であったから。

中世の旧吉野川は別宮川(現在の吉野川)と比べて直線的で水量も多く、吉野川流域の水運のメインで港は旧吉野川河口に集中していたようだ。

木津は撫養街道の始点・終点で海路と陸路の結節点。また讃岐への玄関口であり、当時撫養は島で撫養街道は撫養には達していなかった。

 渭水城は北方と南方の境界・結節点で、近くには渭津という港があって、いくつもの小河川が乱流し多くの中州が形成され、これらの小河川は助任川によって一部別宮川と結ばれていた。

天正5年(1577)三好長治が細川真之を攻めたが逆に追撃されて、助任川で土佐泊城の森志摩守、撫養城の四宮和泉守に救援を待っていたが、中州をめぐる小河川は河道が複雑で潮汐によって水位・流速や向きが変化し案内な者には容易に入り込むことが難しかった。
志摩守は佐古山に麓に入り込み両者は落ち合うことができなかった。

仕方なく長治は別宮浦に向かったが、別宮の里長の密告により追い詰められ長原で自刃した。(長原と別宮は一続きで長原は別宮の枝村)

別宮も当時は島状の地形で、石清水八幡宮の萱島荘内にあり大山崎離宮八幡宮の油座神人による荏胡麻の積出港となっていて、三好氏の支配が及んでいなかった。
長治は別宮を経由することなく、助任川から海路で脱出しようと森・四宮水軍の救援を待っていたのだと。 
 (天野忠幸編「戦国大名と国衆10 阿波三好氏~戦国期吉野川デルタにおける勝瑞と港:山村亜希」参照)