photo_007b 一門で8阿ヵ国もの守護職を占めた細川家も、戦国時代の終わりには和泉国上半国守護・細川元常の養子となった藤孝(幽斎:忠興の父)だけとなっていた。

阿波細川家最後の当主・細川真之(1538-82)の最後にも織田信長がかかわっている。

天正元年(1573)、7月信長は足利義昭を追放し、11月には「三好本宗家」三好義継を滅ぼした。

阿波では、7月「阿波三好家」当主・三好長治は反信長の急先鋒である篠原長房を討ち、信長への接近を目論んだものの、武田信玄は没し浅井・朝倉氏を滅ぼした信長には、長治と和睦する必要はなくなっていた。

同3年('75)4月には高屋城の三好康長も信長に降伏し、12月には本願寺も信長と和睦した。

このような畿内の情勢を見て、8月長宗我部元親は阿波侵攻を開始。
翌4年('76)12月、細川真之は長治を見限り勝瑞城を出奔し丹生山に拠った。 『三好家譜』によればこれには信長が背後にいたと云い、信長は国中の武士に三好長治を討つよう命じたとも。

これに対し真之を追った長治は、長宗我部に与していた一宮成助らの支援を受けた真之勢に荒田野で敗れ、ついには長原
(松茂町)で自刃に追い込まれた。

 堺から阿波に帰国した長治の弟・十河存保も、信長の死
(「本能寺の変」'82.6.2)を受けて一気に攻勢をかけた長宗我部軍との「中富川の合戦」(8/26)に敗れて讃岐に逃れると、元親は寝返っていた新開道善を謀殺し、その手は真之にも伸びた。

近隣の土豪と云われる露口兵庫ら数百人に居館を急襲され、10月8日茨ヶ岡で自害。
二百余年に渡って阿波に君臨した阿波細川氏はここに断絶した。
 (若松和三郎著「阿波細川氏の研究」、天野忠幸著「三好一族と織田信長」参照)