41 天正4年(1576)12月5日、阿波細川家最後の当主・真之が勝瑞城を去って居を構えたのが茨ヶ岡城。

茨ヶ岡城(現・那賀町和食郷字八幡原)は、「岡城」の別名のとおり標高108mの城山で、勝浦町飯谷の福良出羽守の導きにより仁宇山の奥に要害を構え、三好長治の追討軍に備えたと。

その三好長治が真之を追って逆に一宮成助・伊沢頼俊らの助力で荒田野口を追われ、別宮浦の長原の地で自害に追い込まれたのは、同年('76)12月27日とも、翌年('77)3月28日のこととも云われる。

 同地近くには、天正13年(1585)蜂須賀氏が阿波に入国して配置した「阿波九城」である仁宇山城(和食城・鷲敷城があった。
しかし、他の八城とは異なり、その所在地やその遺構は不明瞭だと。

その候補地については和食城や仁宇城が考えられ、『阿波志』によると「蛭子祠 和食村に在り国初山田三哲
(織部佐宗重)、行営と為して居る」とあり、『鷲敷町史』の仁宇山城の項では、山田氏は当初仁宇城(小仁宇城)に入りのちに和食城に本拠を移したとし、山田氏が使用していた井戸が鷲敷小学校の東にあったことから、和食城跡(現・那賀町和食郷字南川)が阿波九城にいう仁宇山城だだろうと。
(小仁宇城は、蜂須賀氏が入国する以前は湯浅氏の居城であった)

 ところで「鷲敷」の名の由来には、蛭子神社が古くは鷲敷社と称したていたことに因み、同社には蛭子の尊が楠木の丸木舟に鷲の羽根を敷いて天下って来たとの伝説があった。
また、地形的に那賀川が大きく湾曲した扇状地であることから、「曲敷・わじき」と伝説が重なったものとも。 (石井伸夫・重見高博編「三好一族と阿波の城館」、荻澤明雄著「続・徳島県地名考」参照)