96 信長は一晩のうちに六角氏を追いやったが、三好長慶は六角氏と畠山氏の壁を崩すことができなかったと指摘する人がいる。

しかし、長慶は果たして近江を支配下に置こうとしていたのだろうか。
長慶の考えていた「天下」は京都一円で、四国人であるから摂津や河内・和泉そして紀伊は手中に治めたかったが、”京都の向こう側”にある近江にはさほど固執していなかったではないかと。(それに対して信長にとっては上洛への途上にある近江は、排除しなければならない地にあった。)

 一方、河内は是非とも手中に収めておきたいエリア。
ここを治めていた畠山氏は越中・能登をも治める管領家であったが、「応仁の乱」ぼっ発の原因ともなったように国内は内乱を繰り返し、戦国期には守護代主導の支配体制が行われていた。

「江口の戦い」(1549.6.12-24)で三好長慶が一族の三好政長を打ち破り、細川晴元政権を崩壊させて晴元とともに将軍・足利義晴・義輝父子らを近江に追放したとき、河内守護代であった遊佐長教(1491-51)は娘を長慶に嫁がせ長慶・細川氏綱(晴元に滅ぼされた管領・高国の後継者)と手を結んだ。

この時、晴元方にあった畠山在氏・尚誠
(義就流)は没落し、当主であった政国(政長流)も将軍追放に怒って紀伊に隠居したことから、河内は実質的に遊佐氏の領国と化した。

 しかし、その遊佐長教が2年後に刺客
(萱振賢継:長教の弟を擁立しようとした)の手によって暗殺された。
そしてまた萱振賢継も安見宗房に暗殺され、一族の遊佐大藤を推して守護・畠山高政を擁立した。

その安見宗房
(? - ?)とは、名前も「直政」とされるなど生没年も定かでない人物であったが、萱振一族をはじめ田河氏・野尻氏・中小路氏などを粛清して実権を握り、天文22年('53)7月将軍・足利義輝・細川晴元軍が入京を目論んで京都一帯で争ったときには畠山氏の軍勢を率いて三好方に加わっている。

その後、永禄元年('58)11月、宗房は主君・畠山高政を紀伊に追放するという事件があり、翌2年('59)6月には長慶・久秀軍は2万の大軍で出陣し、高政を高屋城
(写真)に復帰させて宗房を大和に追放した。

しかし翌3年('60)になると、守護代家なしでは河内の支配は治まらず、また三好氏の介入を快く思わない畠山高政は宗房を復帰させたので、激怒した長慶は河内の直接支配すべく出兵し飯盛山城・高屋城を開城させて、みずから飯盛山城に入り居城とした。

 同4年('61)4月、十河一存の死を見て近江・六角氏と共謀して三好氏を挟撃し、「久米田の戦い」('62.3.5)では三好実休を討ち取ったものの、三好方は5万もの大軍による「教興寺の戦い」(5.20)で勝利し、高政・宗房を紀伊に追った・・。
(畠山軍には鉄砲を擁していた根来衆が加わっており、実休は鉄砲で撃たれて負傷したところを討ち取られたと)

安見宗房が抬頭して来たのは鉄砲が伝来した時期と重なり、後に一族を継いだ安見右近は「安見流鉄砲術」の祖とされる。
畿内に鉄砲を伝えたとされる津田監物算長は宗房と同じ交野郡津田の出身と云われ、何らかの繋がりがあったようだとも。
 (天野忠幸編「松永久秀~安見宗房と管領家畠山氏:弓倉弘年」、長江正一著「三好長慶」参照)