36 九州制覇を目論む島津義久の攻勢に悩む豊後の大友宗麟の要請を受けた秀吉は、「四国征伐」により讃岐を与えられていた仙石秀久に救援を命じた。

天正14年(1686)秋、秀久と与力となっていた十河存保に加え、長宗我部元親・信親もともに3000の兵で九州に上陸。

10月、大友軍と合流して豊前・筑前・筑後などの北部を転戦しているところに、島津義久の弟・家久の軍勢が豊後に乱入し、11月には大友家家臣・利光宗魚の鶴賀城を包囲した。

 これに対して後詰
(包囲軍への攻撃)に出陣したのが「戸次川(へつぎがわ)の戦い」。
鶴賀城は、大友氏の本拠・府内手前の大野川右岸
(戸次川)にあり、軍事上の要衝地にあった山城。

12月12日早暁、府内を発った四国・大友連合軍は鶴賀城を遠望する白滝台の鏡城跡で軍議を開いた。
実は、秀吉は長期戦を考えており、自らが出陣するまで籠城して持ちこたえよと命じており、元親も「兵数が劣っており加勢を待つべき」と反対した。
(存保は攻撃に賛同したと)

しかし、功を焦ったか秀久は渡河作戦を強行した。
案の定、島津の「釣り野伏」作戦により四国隊は鉄砲隊の標的となってしまい、三陣に分かれていた諸隊は分断されたところに、島津勢の伊集院美作守の5000、新納大膳正3000の兵が、やがて家久の本隊8000、本庄主税助2000の兵も押し寄せて、秀久本隊と十河存保隊、長宗我部信親隊は総崩れとなり、存保・信親は討死した・・。(元親隊は戦いに参加する間もなく伊予に敗走)

 (「釣り野伏」作戦とは、兵力を三隊に分けて、二対を左右に伏せ、中央の隊が正面から進撃し、反撃を受けると敗走を装って後退する(「釣り」)。敵が追撃して来たところを左右の伏兵が鉄砲で攻撃する)

十河・戸次川 秀吉の命令に従わず、大敗北を喫した秀久は、僅かの兵を伴って小倉城に退いたうえに、勝手に讃岐に退去したので、秀吉の逆鱗に触れ改易されて高野山に追放された。

現地には信親、存保
(写真)の墓が建てられている。 (「長宗我部元親」学研、平井上総著「長宗我部元親・盛親」参照)