30 紫色の花と云えば「藤」も紫。紫式部が仕えた彰子はその美しさから「輝く藤壺」と呼ばれた。

14才で入内し桐壺帝の第四皇女となった「藤壺の宮」
(藤壺中宮)は、光源氏の亡き母・桐壺更衣にそっくりで、5才しか違わなかったことから源氏の初恋の相手となり、ついには子を身ごもらせた。(後に冷泉帝となる)(『源氏物語』)

 長保元年(999)11月、藤原道長は娘・彰子(13才)を入内させ、既に第66代一条天皇(当時20才)には定子がいたが、翌年(1000)藤原行成を介してなかば強引に彰子を中宮(=皇后)、定子を皇后宮とし、前例のない「一帝二后」となった。

定子の兄である道隆・道兼は疫病のため長徳元年(995)に没しており、政敵・伊周(道隆の子、定子の兄。「中関白家」)は「長徳の変」(996)で失脚・没落しており(定子は一時出家)、道長は全盛期を迎える。(定子は長保2年12月敦康親王を産み死亡)

 彰子は寛弘5年(1008)になって敦成親王(のちの第68代後一条天皇)、翌年には敦良親王(同第69代後朱雀天皇)を産んだ。

ある時、彰子の蚊帳の中に犬の子が入って来た。

このことを道長に話し、道長は学者の大江匡衡に正すと、匡衡は「たいへんな慶賀です。犬の点を下につければ太になり、上に付ければ天になります。皇子が現れるしるしに違いありません」と道長を喜ばせたと。

一条天皇は定子の子・敦康親王を皇太子にしたかったが、やむなく敦成親王を選んだとも。

 また、一条天皇には「四納言」といわれる藤原斉信・公任・行成・源俊賢がいた。
前記事で話題とした「三十六歌仙」はこのうちの公任が選んだものだが、道長に配慮して無理やり含まれたものもいるとの見方も。  (「歴史をつくった先人たち~藤原道長」デアゴスティーニジャパン、高森明勅監修「歴代天皇事典」参照)