Taira_no_Kiyomori 長く三好氏の話題からはなれている。 これも阿波で没した土御門天皇や、阿波から出て後白河天皇に仕えた西光(藤原師光)などに繋がるからなのでご容赦を・・。

 治承元年'1177)6月1日の「鹿ケ谷の陰謀」から2年後の同3年('79)5月、清盛の嫡男・重盛は健康がすぐれず出家、7月に死亡した。


6月には故摂政藤原基実の室となっていた清盛の四女・盛子が、24才で亡くなった夫のあとを追うように同じ24才で没。

これを西光法師の怨霊のたたりだと禁中に落書きされたことがあったと。

 これを機とみた後白河法皇は、重盛の知行国であった越前国を理由なく取り上げた上に、中納言の職を基通(基実・盛子の子で当時21才)ではなく、通じていた藤原基房のわずか8才の子・師家を中納言に任じた。

これは清盛に対する後白河の完全な挑発であり、11月14日清盛は摂津福原から数千騎の兵を率いて京に帰り、厳島詣の途中であった宗盛も呼び戻した。

京中は騒然とし、人々は資財を運び出すなど物騒な有様となったと。


 手だてを持たない後白河は無条件降伏をせざるを得ず、関白・基房を罷免して基通を関白、氏長者とし、師家の地位も破棄した。

16日には、一度は解任して配流を決めていた天台座主・明雲を還補し、17日には近臣39人もの官を解き、基房を大宰権師に左遷し、師長を尾張に放逐するとともに、後白河を鳥羽院に幽閉した・・。

ここに、清盛は「六波羅政権」とも云うべき軍事独裁政権を樹立した。
 (永原慶二著「源頼朝」参照)