Ogasawara_Nagakiyo 三好氏の祖・小笠原氏は「承久の乱」の功績により阿波国守護となった。

後鳥羽上皇の挙兵に対する北条政子・義時らの対応は早かった。

 承久3年(1221)5月14日、後鳥羽上皇は流鏑馬汰と称して城南宮
(京都伏見区)に畿内近国の武士たちを招集した。
京都守護であった伊賀光孝
(三浦義時の妻の兄)は出兵要請を無視し鎌倉に事を知らせる使者を送った。

19日には使者が鎌倉に到着し、直ちに幕閣による協議がなされて、集まった御家人たちに対して北条政子は「頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い」との名演説を行って、22日早暁には泰時が先発した。

その数は、東海道軍10万・東山道軍5万・北陸道軍4万で、総兵力は19万を数えたと。

 これに対して上皇軍は北面・西面の武士や公家の侍、畿内近国の守護勢力だったが、多くは在京の御家人たちと寺社の僧兵で、その数はわずか2万弱に過ぎなかった。

小笠原長清(1162-1242
写真)は、武田信光とともに東山道軍の大将軍として、6月5日尾張国一宮に到着。
木曽川上流の渡し・大井戸に陣を張る官軍・大内雅信軍2000騎と対峙した。

そして、その日の夜には渡河作戦を強行し、圧倒的な勢力で大内軍を敗走させ、魔免戸
(岐阜県各務原市)でも幕府軍は官軍の主力・藤原秀康・三浦胤義(義時の弟)・佐々木広綱(佐々木四兄弟の長男・定綱の嫡男)らを退却させ、戦いの趨勢はほぼ決した・・。

 最後の決戦は都の東方・瀬田と南方の宇治。
13日近江・野路
(草津市)に集結した幕府軍は、時房(義時の弟)軍は瀬田、泰時(義時の子)軍は宇治方面から京都に侵攻し、翌日には入京している。
まるで「鷹の前の小鳥のごとし」であったと。
(『承久記』)

 16日、阿波守護だった佐々木経高は自害。
嫡男・高重は、翌年熊野に逃亡する途中で殺害されたという。 (「承久の乱」廣済堂出版 参照)